ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

20081123日:ミラノ聖アンブロージョ典礼・待降節第二主日

福音 マタイ 31-12

洗礼者ヨハネ、教えを宣のべる そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、悔い改めよ、「天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

ヨハネはファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ。』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしはその履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

福音を顧みて

悔い改めにふさわしい実・・・

「私達の生活の何かに終止符を打つ決心が付かなければ、新しい物を待つ心も生じないのです。いわば、冬が来なければ春も来ない訳です。」先週の福音が戒めてくれたこの姿勢を出発点として、第二日曜日の福音を熟読し、諭してくれる心構えを習得しましょう。それは「悔い改めにふさわしい実」を結ぶ切実な努力の事です。いわば、託身節の道行きの第二道程です。

実を結ぶまで行かず、偉そうな論説を述べ立てるだけに留まりがちな私達に、「悔い改めにふさわしい実を結べ」というお言葉は非常に有り難い主の忠告です。未熟の林檎と完全に熟した林檎の較差を自分の口で体験したことが誰にでもあると思います。もしかすると、熟した実より未熟の方が色が鮮やかで、格好が良いかもしれませんが、口に持って来れば、酸っぱくて喉が渋ります。不注意のために酸っぱい林檎を噛む「渋い」体験はめったにしか起こらない事ですが、悔い改めにふさわしい実とふさわしくない実と交差は、虚栄主義の文化の最中に生活する私達にとっては、毎日の試練です。人と出会って挨拶を交わす一瞬にも、「ふさわしい」か「ふさわしくない」かの真偽がその挨拶にも掛かります。生涯の末に至って、過ぎた年月の収穫はただ「虚栄の空しさ」であれば、終わりに近い人生を顧みて、何と淋しくて悲しい覚えでしょうね。

「悔い改めの実を結べ!」主の命に従って生きる為に、神の傑作品である「母なる大自然」から学びましょう。実を結ぶ為には、母なる大自然が四つの道程を越すのです。

第一は冬で、木が裸になって、冬眠で休むのです。やはり、実を結ぶ為に私達も、身体の休みである睡眠と休暇、そして魂の休みである沈黙と黙想を大事にしなければなりません。日曜日も通常の活躍に振り回されて自己を無くした人は、雑音を一杯起しても、実結びは無し!

第二は春で、木が新芽を出し、花を咲かすのです。実結びを慌てて花を咲かす道程を抜かす木は一本もありません。しかし、私達人間は、花を咲かさずに早速収穫をせがむのです。花を咲かすとは、身体の成長をそそる体操とか、山登りとか、とにかく体力と体調を整えてくれる訓練です。特に、魂の花を咲かさなければ、立派な実を実らす事は決してあり得ません。魂の花は、祈りです。祈りは、やがて来る季節で美味しい実に熟し、偉大な業を成し遂げます。実現は祈りの成就です。

第三は夏で、実が太る時期です。私達も、大人の時代に至ったら、春に咲いた花びらが落ちるのを見ても惜しまず、大人らしく実を結ぶのに精を出します。実の体が太る事を目当てにして、余計な枝を刈り込まれたり、余計な花を風に取り上げられたり、出来る限り実だけを聡く結びます。落ちる余計な花を惜しんだ人は、刈り込みを受けなかった木と同じく、葉っぱが茂っても、実は無し!魂の夏は、主キリストの死と復活に与る事で、それを具体的に実地できるのはミサ聖祭においてです。ミサは、キリストの体を食べ、一体化し、自分もキリストの体の肢体になるのです。

第四は秋で、夏の間に太った実はじっとして多量的な成長が終わり、今度は中身を熟して頂き、実自体は芳しくなるだけです。こうして、夏に賑わった葉っぱは、色づいてから一枚一枚と地に戻るのです。そして、木の肌か枝先にかかって残るのは、光線に輝く柿の実です。人間の秋は、人生の旅が下り坂に着いた時代を指しますが、職業的に後退しながらも、人間味が溢れる人生の深い色合いに富んだ季節です。美味しい果物は食卓に出され、家中は孫達がはしゃぐのです。そのうち、背丈はちぢみ、腰はかがむ。しかし、魂の姿は聖霊に満たされて深い慈悲に満ちるのです。秋は、一年が過ぎ、一年が訪れ、伝達の季節です。暖かく人生の流れを見守る年寄りの目は、若者に希望を注ぎます。

分かち合い

11月22日は聖セシリアの記念日です。彼女は、「心のうちで神に音楽を奏でていた」といわれ、音楽の保護の聖人として沢山の人々から親しまれています。日本ではこの聖人の霊名を貰っている人が沢山居る様ですが、ミラノでは私が24年間教えていて、生徒の中でセシリアと言う名前の生徒は1人しか居ませんでした。矢張りローマで生まれた聖人なのでローマにはこの名前の人が沢山居る様です。又ローマの国立音楽院もこの名前で「聖セシリア音楽院」と言う名前がついています。因みにミラノは「ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院」です。アッシジとフイレンツェの間に位置するチッタ・ディ・カステッロという町に良く行くのですが、この小さな町外れに聖セシリア観想修道院があります。これに隣接して聖ヨゼフ教会があってシスター方も一般信徒達も、同じ教会内で90度に位置して離れて一緒に御ミサに与かります。私はお祈りをした後教会から出て歩いていたら、他の会の修道会の年配のシスターに声をかけられて「シスターになりたいのですか」と云われ、暫く立ち話をしました。又小さい町なので、10軒の教会が全部歩いて行ける距離にあります。その中には御聖体を1日中顕示してある教会もあって、その教会は町の中心にあって、住んでいる所から近いのでそれとなく良く行きます。ある時、同系の教会から御聖体行列が入って来ました。古い教会でズーット御聖体が顕示され続けてきた小さな教会、横を通られた時にはお祈りも一層深まりました。 澄玲

今週の福音

23 () マタイ 31-12

24 () マタイ 1116-24

25 () マタ 1214-21

26 () マタイ1222-23

27 () マタイ 1233-37

28 () マタイ 1238-42

29 () マタイ 1243-50

30 () ヨハネ 533-39

ローマ日本人会月刊”こらっじおじ”200811月号(第228号)より、シスターの御了承を得て掲載させて頂きます。

結婚を目指す若い男女が婚約の準備を経るように、誓願式を目指す若い志願者も、心身を整えるために1・2年間の修練を行います。どの修道者にとっても、修練気は修道生活の新芽で、何時までも人生の生き生きとした嬉しい思い出です。ロ・マで修練期を過したシスター岸・里美は、語彙と習慣の違いを問わず、何処でも「花婿」が暖かく迎え構えてくださる体験を語っています。待降節の霊性への誘いとして読ませていただきます。シスター有難う!おめでとう! ルチアーノ神父

修練期をイタリアで過ごして

岸 里実(聖心のウルスラ宣教女子修道会)

今わたしは少しずつ荷物の整理をしながら、出発の日を待っています。わずか二年間の生活にも関わらず、いつの間にか荷物は増えてしまいました。増えたのは荷物だけではないようです。わたしの内なる土地には、一本の若木がしっかりと枝を伸ばし、根を下ろしつつあるのを感じています。

修練期をイタリアで、と初めて聞いたとき、わたしは驚いたり戸惑ったりするより先に不思議と、「そんなこともあるだろうな」と思ったのを覚えています。思えば聖霊様が心の準備して下さったのでしょう、語学がさっぱり出来ないのに、わたしは大らかな気持ちでイタリアに来ました。

イタリア人の修練長のもとで、最初の三ヶ月ほどは、語学との格闘で頭痛もしましたが、ある意味わたしは赤ちゃんになった気持ちで、「あれは何だ」「これは何だ」と聞きながら、言葉や生活を覚えてゆきました。

この「赤ちゃんになる」という気持ちは、わたしにとってまるで自分をリセットするような、言い換えると、一人前の大人としての自分のやり方でなく、全く自分が白紙の状態で物事に臨む感覚でした。それは正に、神様の御手に自分の全てを委ねる、という状態だったのです。今思えばこの態度は、修練期に最も要求される事でした。イタリアで修練をしたことで、それをわずかでも身につけることができて、本当に良かったと思います。

同時にわたしは共同体の生活の中で、様々な種類の「違い」を学びました。イタリアだけではなく、様々な国籍から来る文化の違い、年齢差から来る世代の違い、性格や育った環境からくる性格の違い…。この様々な違いは、わたしに「もっと開かれる」ことを要求しました。

違いを前にすると、最初はすぐに否定したくなります。けれども場を重ねるうちに、少しずつ受容することを学ぶようになりました。それは同時に、「わたし」について知ってゆく過程でもありました。つまり、自分と全く違った他者を前にすることで、「わたし」がより明らかになったのです。わたしは日本人であり、日本的感覚を持っていること、自分の性格の傾向について、自分の限界や弱さについて…。

様々な国籍の人が一緒に生活をするのは、確かに困難があります。それでも、これほどの多様性を前にすると、感嘆せずにはいられません。この多様性が豊かに花開いて、一致の実を結ぶとき、わたしは自分も「キリストの体」の小さな一部であることに、喜びの叫びをあげるでしょう。

わたしはこれから日本へ帰って、初誓願を立てます。今は自分のいただいた召命に、ただただ喜んで、修道生活を歩みたいと思います。イタリアで修練期を過ごせたことを、心から感謝しています。ありがとうございました。

初誓願の式は一月十二日に、福岡の本部修道会で行います。

修練期という特別な時期を、ここで過ごせたことに感謝で一杯です。

坂口みどりさんの紹介のお陰で、遠い日本からミラノに尋ねて来られる愛地大の卒生「CORO AKI」コラスは、日本民謡の演奏会を楽しませてくださいます。

時は来る29日(土)15.30時より、

場所は私たちの教会(Santa Maria Annunciata P.zza Duomo 18)です。

秋の季節も終わりに近づき、冬の気配が肌に予感されるこの頃、「CORO AKI」の民謡演奏会は、何と時の流れの真剣味を覚えさせてくれるでしょう。興味ある友達も誘って、どうぞお越しください!。

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