ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

20081116日:ミラノ聖アンブロージョ典礼・待降節第一主日

福音 マルコ 131-27

神殿の崩壊を予告する イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の1人が言った。「先生ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。1つの石もここで崩されずに、他の石の上に残ることはない。」

終末の徴 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレがひそかに尋ねた。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る物が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

大きな苦難を予告する。「憎むべき破壊者が立ってはならないところに立つのを見たら、―読者は悟れ―、その時ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいるものは上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが、冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を作られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」

人の子がくる「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。

そのとき人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

福音を顧みて

ミラノの教会においては、世界の他の教会より二週間も早く、キリストの降誕を待つ待降節が始まります。今日はその第一日曜日に当たります。十一月の雨で、樹木も葉を落とし、派手やかさを脱皮し、新しい春を待ちながら冬眠につきます。いわば、待つ心は脱ぐところから芽生えるのです。しかし、誰も裸まで脱がされる事を好まず、却って人生の途中で編んでしまう関係に絡み付いて、中々手放したくない傾向を持っています。執念の心は自由を知らず、人生の旅を暗くしてしまいます。事実、私達の生活の何かに終止符を打つ決心が付かなければ、新しい物を待つ心も生じないのです。いわば、冬が来なければ春も来ない訳です。それで、今日の日曜日は、ミラノ教会では新年度の第一日曜日で、他の教会では旧年度の最後の手前の日曜日であるのですが、終わりと始まりの辻妻の一弾みだけで、実は指す方向は唯一つです。即ち、終わりがあって、始まりがある事です。

「時は魂の巡礼である」と言えます。まさに時の流れそのもの自体、「終わり」と「始まり」のコンサートを演じる役者です。時が流れる川床は歴史の様々な曲折によって成り、ところには穏やかで、ところには激しい流れです。特に、激流に巻き込まれた際、必然に目覚めて注意しなければなりません。同じ様に、歴史の流れにおいても、困難と迫害の漂流に見舞われた時、人生の帆掛け船が難破しない様に余分の重みを一切手放さなければなりません。惜しんでは、命がけです。そうです!人生の困難の主役は、人間にどれほど余計な重荷を背負ってしまったかを諭らせる事です。困難が生じなければ、おそらく私達は執念の奴隷化に終止符を打つ事はなく、新鮮味を忘れてしまい、ただくどい毎日を送るだけで、創造の曙に頂いた神の子の姿は犯され、神の栄光は消えてしまいます。

余念無しに生きる事は、いかに尊く「霊的な生き方」であるか!その為に、「時」と「時」との間に空間を置かなければなりません。お寿司を食べる時にも、違った魚の新鮮味を鑑賞する為には、前の味を消しては次の味に移るという段取りを守る事です。生活自体、私達に「降誕節」の霊性を教えてくれます。仏教では、「衆生は無常」と唱え、すべての現象は過ぎ去るもので、離脱の心は大切な姿勢だと述べてくれます。そこに福音が告げ加えるのは、「衆生は無常」である故に、一切の存在が自分の形容と運命に閉じこまず、神の無限の愛に「己」を溶かし返し、その流れに永遠に生きる召し出しです。仏教での「衆生は無常」は「衆生の無常は愛」に福音化され、「終わり」と「始まり」の弾み方もその愛の無限さの営みです。

無限の道に手引きして下さるのは、主の霊です。「連れて行かれる時、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。その時には、教えられる事を話せば良い。実は、話すのはあなた方ではなく、聖霊なのだ・・・最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。聖霊に導かれて、預言者は予言し、貧民は希望を抱き、女性は新生命を受胎し、人類は平和の世界に憧れ、聖母マリアは天使のお告げに「お言葉どおり、この身に成りますように」とお答えし、罪人の私達は改心を望みます。

「待降節」です!自分の生活において主の愛の「託身期」です!

分かち合い

先日ミラノでコンサートをなさった坂口みどりさんが、今度は日本からお友達をお呼びになって、コーラスの音楽会を開かれます。コーラス・アキと言うグループ名で皆様、着物を着てナポリ民遥を歌われます。詳細は添付文をご覧下さい。イタリア人もお誘いの上ぜひお越し下さい。

場所:ミラノ日本人カトリック教会

日時:11月29日()15:30

今週の福音

16 ()マルコ131-27

17 () マタイ418-25

18 () マタイ721-29

19 () マタイ99-13

20 () マタイ916-17

21金)マルコ331-35

22 () マタイ101-6

23 () マタイ 31-12

* * * * * *

来る24日に長崎で列福される殉教者の中で、53人ほど新潟県の米沢地方の出身者です。新潟は長崎と並んで、信仰が深くて広く根付いた地です。今年の復活祭にミラノ日本人カトリック教会で洗礼の恵みを受けた荒川いづみさんは、自分の生地でもある新潟の教会に流れた殉教者の透明な信仰を証し、以下の記事を贈ってくださいました有難うございます。

11月に想う

11月になると、イタリア生活の始めの頃、クリスマスは勿論、復活祭、諸聖人の日が国民の休日になっていることに感激したのを思い出します。家族や信徒の方々とだけでなく、皆と分ち合えるからです。

日本には春分の日、秋分の日、勤労感謝の日と言った本来季節の変化と結びついた国民の休日があります。春秋分の日は仏教の浄土思想のお彼岸として親しまれ、皆お墓参りをし、おはぎなどを食べる風習がありますが、イタリアではクリスマス、復活祭、諸聖人の日に皆が祝い、祈るということが新鮮に映りました。また、それぞれの地方に祝祭日にゆかりの独自のお菓子や食べものがあることも、食いしん坊の私には興味深いことでした。

日本の私の地元のカトリック教会の風習の中で、好きなものがあります。

8月15日は朝、聖母被昇天のミサを教会で授かり、夕方になると司祭も信徒も墓地に集います。平和を祈り、戦没者、そして全ての聖人・兄弟姉妹のために御祈りする“お盆”のミサに参加するためです。 聖母被昇天のお祝いと終戦記念日、諸聖人の日と死者の日が一緒になった感じで、普段教会にはお見えになられないご年輩の方やご親戚、子供たちも多く出かけていらっしゃいます。墓地が私たちの小教区とお隣の小教区のちょうど真ん中に位置するため、二つの共同体の司祭が御一緒にミサを立ててくださり、共同体同士の交流の機会にもなっています。

夏の夕方ですので、蚊の恰好の餌食となるのですが、この日だけはあまり目くじらを立てずに、小高い丘の上の墓地から、父が生前とても大切にしていた海辺にそって広がる松林の緑と、日本海に沈みゆく夕日を眺め、蝋燭を灯して祈り、歌います。

一方、11月の新潟は既に寒く、しかも共同体の多くの方がご高齢のため、お墓参りは天気の良い日の暖かい時間にそれぞれで行っています。「死者の日」には教会の交わりのなかで眠りにつかれた人々の名前が一人一人読まれて記念され、一緒に過ごした日々を想い出し、いつか共に生きる日々を想って祈ります。

今年は1124日にペトロ岐部と187殉教者の列福式が長崎で行われます。

新潟教区の信仰の先達で、山形県米沢で殉教したルイス甘糟右衛門(あまかす・うえもん)をはじめとした53名も含まれていることもあり、今年の始めから「殉教者を想い、共に祈る週間」が続けられてきました。

今年の9月の帰省時に、教会で配布されていた冊子のなかで注目したい言葉がありましたので、下記に引用させて頂きたいと思います。

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今回の殉教者の中に、この53名が選ばれたのには理由があります。当時、米沢の教会は、ルイス甘糟右衛門という信徒のリーダーを中心として成り立っていたのであり、その数は千名を超していたと伝えられています。そして信仰は、単に一人ひとりの個人的な信仰だったのではなく、家族を通じて代々伝えられていくべきものとして、司祭不在の中、信徒の手によって脈々と伝えられていったのです。米沢の殉教者は、信仰の自覚を持った信徒の共同体として、社会に対して証しをする共同体だったのです。信徒による共同体づくりとあかしによる福音宣教。まさしく新潟教区に生きる今の私たちに求められていることを、すでに400 年前に実践していた先達(せんだつ)として、選ばれています。殉教者といえば、命を捧げたこと自体の偉大さばかりに注目しがちですが、私はそれ自体は結果に過ぎず、重要なのは最終的には殉教という結果を招くに至ったものの、それ以前の日々の生活における信仰に生きる姿勢の方が重要であると思います。私たちが倣いたいのは、もちろん最終的にはその勇気ある生き方でしょうが、それ以上にこの先達の日々の信仰生活そのものなのです。

荒川いづみ

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