ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

2008年8月31日 ・ 年間第二十二主日

福音 マタイ 162-27

〔そ のとき、〕イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、 と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりま せん。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それ から、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それ を失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すの に、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」

福音を顧みて

確かに福音は人間的な知恵や常識から生まれたものではありません。信仰を告白したペトロに対して主が「あ なたは幸いだ。あなたにこの事を現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」という祝意を賜り、更にペトロの信仰の上に教会をたてる約束をなさいま した。それを見て私達は、イエスに就く道を貫き、弟子としての博士号を取ったペトロですから、教会の礎に選ばれる資格を得たものだと解釈し、ペトロに喝采 を送りたく思います。しかし、主に従う道は、人間が思う道と異なり、両道の間には価値観がかみ合わないものです。「わたしに ついて来たい者は、自分を捨て」と主が仰るが、完全な自己を達成した上で主について行くという、美化した「自分」も捨てなければなりません。美化した自分 は一番捨て難いものです。キリストについて行く動機は己の成就を得る凱旋道ではなく、却って愛の国に自己を捧げ尽くす小道です。選ばれたペトロの召し出し も、他ならぬ自分の十字架を毎日運びながら改心の小道を歩き続ける事でした。

今日の福音は、教会の礎と選ばれたペトロの「人間的な弱さ」を述べてくれます。信仰告白の為に褒められたばかりのペトロには、矢の如く鋭い主の非難が当 たって来ました。「サタン、引き下がれ」と。人間的な常識において考えるなら、リーダーと任命された者をあえて避難する事は、団結を弱め、秩序を乱す事に なるので、便宜上の方便を使ってでも、上司の欠点を隠して置く事は知恵とされています。しかし、どんな権威も奉仕する「役目」に他ならないと確信しておら れた主にとっては、直前に「幸いだ」というペトロは、直後に「サタン引き下がれ」に変わってしまいます。変わるのは、主の心ではなく、ペトロの態度です。 褒めて下さるにせよ、しかって下さるにせよ、主の心は一つで、ただ私たちの真の改心を求めておられます。

ペトロは、主に愛情を表すつもりで、先立つ十字架をどうにかして避けられる様に願い申しただけです。しかし、その人情の裏にはペトロの弱みが隠れていまし た。何と言っても、私達も同様ですね!そうです。私達も迎えるべき十字架から逸れようとする際、主にも十字架を避けて楽な道を私達と一緒に歩んで欲しいで す。弱い弟子には、弱い先生が好ましい。弱虫の世界には、上司も部下も弱さは原則です。

ペトロの姿には、自分に対して権威を行使する全ての関係を見抜いても良いです。聖書がよく証かしてくれる様に、神から来る救いの声が、たびたび人の欠点や 罪の状況に載って私達の心に響いて来ます。大小を問わず森の樹木が広い空の下で自由自在に繁茂する様に、私達も、キリストの広い思いの中に生かされている 事を体験する時、従順と自由が一致して、ただ神の愛の具現です。

今日の福音は私達の怠慢を直し、信徒も司祭も生き生きとした信仰の道を歩み、大小を問わず繁茂する森の樹木の如く、キリストの広い抱擁に抱かれる教会は、 この世の神の国の具現であることを祈りつつ・・・「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る。」

分かち合い

聖霊刷新関西大会が23日で行われ私も参加しました。外人の神父様、シスター、信徒を入れて全国から300人余りが、神様の愛に一緒に交わる為に喜びを分かち合いました。今回は講師がアメリカからいらした神父様で通訳も居て、音楽グループ6人 に合わせていつもの様に賛美から始まりました。皆リズムに合わせて身体を自由に動かし、手拍子を取りながら歌い、ある老婦人は喜びに満ちて踊って歌いま す。専門のダンサーもタンブリンに合わせて踊って、私達も一緒に飛び跳ねたりします。静かな歌の後に異言に入ってお祈りをします。講話、ゆるしの秘蹟、聖 体顕示、御ミサが続きます。講話の中で、「入り口は一杯あります、でも最後に行き着く所は皆同じです。宗教は1つです。」と仰った箇所は、私がいつも思っ ていた事を再確認しました。2日目の夕食後は賛美の後に油の癒しがありました。イエス様の臨在なさる場所で、聖霊のお恵みを頂いて、泣いたり、倒れる人が一杯居ました。ある倒れた人の話、「星空の星の間から聖霊が降りてくる感じでとても綺麗でした・・・」

ここに聖霊はたらけり、我知る主イエスの臨在で、ここに聖霊はたらけり。

我知る主イエスの愛を、主の約束、天よりくだり、我のうちに溢れる力を、

主の御恵み、わが心に信仰により、主の力はわが物なり。 主に賛美より

神様、イエス様、聖霊様ありがとう    古谷野玲子

今週の福音

31 日 マタイ 1621-27

1 月 ル カ 416-30

2 火 ル カ 431-37

3 水 ル カ 438-44

4 木 ル カ 51-11

5 金 ル カ 533-39

6 土 ル カ 61- 5

7 日 マタイ 1815-2

係りが次の様に決まりました。皆で協力してやって行きたいと思っておりますので宜しくお願い致します。

週 報:古谷野玲子         会 計:堂内あかね

典 礼:荒川いづみ         図 書:小枝百合香

音 楽:高野 涼子         聖堂係:安澤 結花

企 画:坂口みどり

親 睦・遠 足:切ヶ久保たかこ、桜井まゆみ

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