ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

20081012日 ・ 年間第二十八主日

福音 マタイ 221-14

〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに〕イエスは、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

福音を顧みて

イエスが語られた例え話は、ほとんど「神の国」を対照にしている所から見れば、「神の国」の到来はイエスが私達に告げたかった最も大事な福音であることが分かります。荒れ野での誘惑を体験し終えたイエスは、人々の間に戻られると、早速福音の証しを公に展開なさいました。福音宣教の冒頭の呼びかけは「時は満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ115)、やはり「神の国」の到来を告げる叫びでした。「神の国の到来」はイエスのすべての教えを結び整える(編成する)要です。金の要です。この日曜日の福音に主が語って下さる例え話に耳を傾けましょう。

「そのとき、イエスは司祭長や長老たちに例えを用いて語られた。天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」。神の国の到来は福音の要であれば、「婚宴」とか「宴会」とか、いわば皆が集う宴はこの要を描くもっとも適切なイメージです。仏教の極地は「涅槃」の不滅の安静であれば、キリスト教の「神の国」は神の愛を永遠に分かち合う宴です。今日の例え話の宴は神がわが子の為に整えられた婚宴で、それに私達が順々に招待されています。ところが、招かれた多くの人は個人的な都合の故に折角の招待を退けます。「一人は畑に、一人は商売に・・・」という申し訳で・・・結局、人間は神の国の永遠なる宴より、目先の利益の大饗宴を優先します。金や名声を得る為の活動に没頭して、結婚して子供を育てる聖なる決心や年終えた両親を見る尊い孝行などの、すなわち儲けと関係のない勤めを第二義的な作業に下げてしまいます。

主の例え話を文字通りに解釈すればするほど、ますますその教えを身近な忠告と感じます。具体的な例を挙げましょう。私達が招待されている神の子の婚宴とは、毎日の祈りと日曜日のミサ聖祭である事が明らかです。来る十一月二十四日に列福される187殉教者は迫害の厳しい圧制を挑んで、命がけにもミサを祝っていましたが、現在の私達は、自分達の都合を優先、日曜日のミサを後回しにしがちです。ミサの都合より、個人の都合が先!どうしてもミサに出られない日曜日があるのは止むを得ないですが、とにかくミサの参加は日曜日の主要な都合であることを覚悟しない限りは、私達の活動の扇には締めくくりの要が欠け、心が千切れてしまうのです。心を片付けないと、時間の無駄扱いが連続!時間の無駄扱いのために、雑用が増え、ミサの出席は不可能!

主の厳しい例え話が継続する秋の日曜日ですね。庭の柿の木は葉を一枚、又一枚土に返し、裸の枝には日光に輝く実を備えているこの季節です。神の王子の婚宴に与るように招待された私達も、個人的な雑用を脱いで、素直な白衣に着替えた姿で、永遠なる宴に参りましょう。本来のエッセンスに帰依すれば、人生は純粋な実を結びます。

分かち合い

10月はロザリオの月です。前教皇ヨハネ・パウロ二世によって「光(啓示)の神秘」が加えられました。ROSARIOとは薔薇の花冠という意味ですが、「聖母マリアへの祈り」を1輪の薔薇とみなし、薔薇の花冠を祈り上げていって、信仰の奥義を黙想し、霊的花束をマリア様にお捧げします。ルルドとファティマに御出現なさったマリア様ご自身もロザリオの祈りを唱えることをすすめられました。毎日の祈りと共に押田成人神父様がロザリオについてお書きになった「ばらのまどい」 をお読みになりたい方は、日本人教会事務所図書に置いてありますので、どうぞお読み下さい。  澄玲。

今週の福音

12 () マタイ 221-14

13 () ル カ 1129-32

14 () ル カ 1137-41

15 () ル カ 1142-46

16 () ル カ 1147-54

17 () ル カ 121- 7

18 () ル カ 101- 9

19 () マタイ 2215-21

お知らせ

先週の週報には12日(日曜日)の遠足のことを載せましたが、坂口みどりさんのソプラノ・リサイタルに出席ができるように、以下の通りの計画変更になりました。

ごミサ直後、望む方は司祭館で昼食を分かち合う。ついでに15.30から、リサイタルが催される Via Manzoni San Francesco da Paola 教会に赴く。

坂口みどりさん、おめでとう!

聖パードゥレ・ピオ(1887-196)

ミラノの学校で教えている時にある生徒のお父さんが聖P.ピオから奇跡を頂いたとか、先生の中でも聖P.

ピオの奇跡がなかったら自分は生まれて来なかったと云っている人がいました。そして御受難会の「ピオ神父の集い」と「祈りの園」の黙想会へ行きました。指導はカプチン会でアメリカ人の神父様でした。十字架の道行、聖体賛美、御ミサとありました。そして1列に並んで、聖P.ピオが手に巻いていらした布片と写真が四角いガラスに入った箱を額に当てて、聖P.ピオのお取次ぎによって癒しを頂ける様にお祈りをしました。聖P.ピオは「十字架の道行」を全うした人生でした。そしていつも神様に試練を下さいとお祈りをなさいました。又余り多くの人が告解に行くのでカプチン会では番号札を渡す様になって10日も待たされたそうです。そして告白者の霊魂を読み取る事が出来たそうです。私はある時足を延ばして山上の町サン・ジョヴァンニ・ロトンド迄行きました。イタリアを長靴の形に見立てると踵の直ぐ上に位置して、ローマから特急で4時間、フオッジャに着いて、バスに乗り換えて1時間、山上の町サン・ジョヴァンニ・ロトンドへ着くと爽やかな空気に触れる事が出来ました。

予め予約していたシスターが経営していらっしゃる巡礼宿泊所が幸い「恵みの聖母大聖堂」の近くで、着いて直ぐに大聖堂の地下に降りて聖P.ピオのお部屋の前に行ってお祈りをしました。そしてこの建物の中にある巡礼道を歩きました。聖P.ピオの身の回り品とか手紙が一杯ありました。翌朝は宿舎の御聖堂で御ミサに与りました。そして先ずこの町にある10軒の教会巡りをしました。宿泊所、病院、大聖堂等のある所は新しいゾーンですが、10軒の教会がある所は昔のゾーンで町の反対側です。イタリアではどこの広場へ行っても必ずお爺さん達がお喋りをしていて、皆町中の教会を知っているので、聞いて回って又その辺りを車に道具を積んで仕事をしている人にも聞いて回って、又巡り回ってその人に出会ったり、10軒回るのにも知らない所なので、回り回って辿り着いてお祈りをしました。その後聖P.ピオの一生を蝋人形で作ってある博物館に入りました。両親は敬虔なクリスチャンでアッシジの聖フランシスコを尊敬していらしたので、名前はフランシスコと名付けられました。お部屋はいくつかに分かれていて、小さい時にカプチン会の修道士の訪問を受けて自分も修道士になりたいとか、前の教皇様ヨハネ・パウロ2世との面会、悪魔の訪れ等の部屋があり、最後の部屋は81歳の時にソファーの上でお祈りをしている時に、3人の修道士に見守られて静かに天に昇ったときの蝋人形の顔は、少し白っぽく平安に満たされた感じで本当に良く出来ていました。1旦宿舎に帰って昼食を取って1休みして、午後は大聖堂の手前横にある階段を上り詰めた所にある聖所へ行きました。真中当たりにある「十字架の道行」では緩やかな坂を上って行って、他の人達と一緒にお祈りを唱えました。降りてから又P.ピオのお部屋とお墓のある地下室へ行ってお祈りしました。そして新しく出来た御聖堂等その辺をブラブラして夕方又聖P.ピオの部屋の前に行ってお祈りをしました。お祈りをしながら聖P.ピオに近づく事が出来て充実感に満たされました。1階大聖堂の横の古い御聖堂に入るとポーランド人達の御ミサがあって一緒に与からせて頂きました。宿舎の食堂で一緒のテーブルになった人のご主人が37歳で難病にかかりお医者様に推薦されて、ここの聖P.ピオがお建てになった病院「苦難救助の家」に入院しているそうですけれども、中はとても設備が良く又行き届いているそうです。彼女はご主人と2人のお子さんの写真を見せてくれて又の出会いを約束して、夕食の後も病院へと向って行きました。私が聖人の話しを聞いていつも感じる事はその愛の大きさと意志の強さです。私は聖P.ピオのお棺と手に聖痕が出ている絵葉書を買いました。それには「おお死よ!何を怖がる事があるのでしょう。今あなたの人生が始まるのです。」と書いてありました。そして今も天からお祈りをお続けになって奇跡を行って救われている人が居ます。    古谷野玲子

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