ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

2008年9月21日 ・ 年間第二十五主日

福音 マタイ 201-16

〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

福音を顧みて

一日中働いた人と一時間しか働かなかった人が同じ報酬を受けたという話題が労働組合の耳に入れば、きっと労働組合が不正な雇い主に対して起訴の処分を取るでしょう。言うまでもなく、私達も勤めた期間の長短に応じて人を報いるのは、正義にそった行動だと思います。そうだからこそ、人間的な正義の念に逆らう今日の福音に対しては、注意深く耳を傾けましょう。きっと、その意味が人間的な知恵より深いものです。

「神の国は次のようにたとえられる」という入道の言葉を聞いただけで、主はこの世において私達が唱える配分的正義を否定なさる訳ではないことが分かります。それはそれで、とにかく今日の福音は人間的な正義の念が神の心の正義に適わない事をはっきりと証明してくれます。人間は置かれている観点に偏って判断するならば、神の思いは永遠である故に、遥かに私達の常識を超えています。

一人は早朝、もう一人は午前九時ごろ、他の人は正午や午後に葡萄畑の仕事に雇われたのであれば、早朝から仕事についた労働者の功績がより高く、後者の効率がより低く、従って報酬の差が出るのは止むを得ないと私達が思います。しかし、主は人の価値を労働の成績だけから計る事をされません。辛抱強く勤め口を求め、次々に戸を叩いて回る失業者は、いろんな拒否を返され、場合によっては恥さらしの人物扱いも堪えなければならないのは、現在至る所に見られる有様です。主はこういう辛苦も計算なさいます。やはり、午後五時まで誰も雇って上げなかった失業者の苦労は、早くから畑に汗をかいた労働者に劣らない人生の十字架を味わったのです。

この福音は、貧国を出て仕事や糧を豊かな国に求めて行く移住者の現代の状況を連想させます。滞在許可を得るために警察署、就職口を見つけるために職業安定所の門前に長い列を作る彼らのうつむいた表情を見ては、私が哀れみを感じざるを得ませんが、その同情の中に一抹の蔑みも潜んでいるかも知れません・・・安定した自分の専攻の職場を誇る私には、今日の福音が心の寛大さを教えてくれますね。信仰深い家庭で生まれ、早くも神学校の教育を受けて司祭に叙階されたこの私は、文字通り早朝から呼ばれた一人です。違った環境で育って、死ぬ直前にしか信仰に心が開けない人をどうして裁けるでしょうか。ただ、傍にいて、友の手を握りながら祈りを注いで上げましょう。「ただで受けたのだから、ただで与えなさいと」と主が仰った様に。

自分の個人的な範囲にも今日の福音を当てて見ましょう。誰も自分の生き方の中には、すぐ成功できる面があれば、何時までも直らない欠点もあります。自分の美点を祝し、恥ずかしい欠点を嫌がるのは私達の本能的な傾向です。しかし、最後に憐み深い主は、私達が育て得た美点にも、最後まで治す事に成功できなかった欠点にも、同じ愛を注がれるでしょう。「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる〕。

分かち合い

この度、東京教区の高輪教会でオルガンを弾かれる国分由美子さんから、面白いお願い届いて来ました。と言うのは、今月の5―7三日間はミラノに滞在する予定なので、ミラノの貫禄ある古い教会でオルガンを弾かせて欲しいと。。。国分さんの願いをドゥオモ(ミラノ大司教座教会)のオルガ二ストに伝えたところ、喜んで6日土曜日の前夜ミサで弾いて頂いて良いという返事を受けました。ミサ聖祭が終わっても、ドゥオモの閉門まで弾き続けてもいいと。。。すでに、日曜日のミサになるので、参列者は多い。ミラノのドゥオモが、世界にももっとも広くて貫禄ある教会の一つです。オルガンの音響は聖堂の空間を満たすと、まさに天国のメロディの吟味。。。

国分さんが先に寄られたドイツのある教会で、丁度オルガンの旋回階段を下りる際、足を滑らせて怪我をなさったので、期待されたドゥオモでの典礼演奏は中止になりました。残念でした。「国分さん、次会に延期ですよ!」

日本の諸教会でオルガ二ストの大役をなさる皆さん、旅行や出張の先でミラノに寄ることがあったら、ドゥオモのオルガンは待っています。皆の主を称えるために。。。

ルチアーノ神父

今週の福音

21 () マタイ 201 -16

22 () ル カ 816 -18

23 () ル カ 819 -21

24 () ル カ 91 – 6

25 () ル カ 97 – 9

26 () ル カ 918 -22

27 () ル カ 943b-45

28 () マタイ 2128 -32

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信仰の小道に沿って

原田久代さんの証言を読んで、感動しました。誰かが信仰へ至るまでに歩んだ小道を打ち明けて下さる時、全然会っていない方であっても、深い兄弟感を覚えます。そして、自分が辿り着いた曲折を思い起こし、その中の私を導いて下さった主の霊に感謝の念が湧きます。時が流れて人生の旅は進んで行きますが、我を張って生きているか、あるいは天を仰いで歩いているかと、自分自身の真偽を自問するところに、自分の小道に主が慈しみを注そいで下さる事を感じれば、何と嬉しい事でしょうか!この世にあっての、永遠の宴の味見です。原田さん、有難う。ルチアーノ神父。

「ルチアーノ神父様、

はじめまして!

私は大阪の香里カトリック教会に所属している原田久代と申します。

去年、古谷野玲子さんとの出会いのお恵みを頂き、それ以来、古谷野さんから送ってくださる週報を楽しみにしています。ルチアーノ神父様の福音のお話は、いつもとても深い愛を感じます。そして皆さんの心温まる分ち合いなど読ませていただいて、私にとっても日々神様と共に歩む力を頂いています。

本当にありがとうございます。

今日は私も神様から頂いたお恵みを分ち合いたいと思います。

神様の愛に導かれて。

私は仏教の家で育ったのですが、信仰に対してはあまり興味は無く、ましてや神様の存在など夢にも思ったことがありませんでした。けれども色んな悩みを抱えていて、生きることに対して深い空しさを感じていました。そして色々と悩んだ末に、一人で生きていく事を決心して、25歳の頃、郷里の岡山を離れ大阪に出てきました。働きながら生活していく中、新たに人間関係の難しさなどが加わり、私の心には不満ばかりがつのり、平和は全くありませんでした。平和な心で生きていく方法はあるのだろうか?と思い始めていた頃、職場の友達を通してクリスチャンの方と出会う機会があり、神様が本当にいらっしゃる事を初めて聞かされました。私はどうして目に見えない神様がいらっしゃる事が分るのだろうと、とても驚きました。それ以来、私の心は神様の事を知りたい思いで一杯になり、色んな書物を通して捜し求めている内に、聖書に導かれました。そして聖書を読んでいくうちに、特にイザヤ書の中の「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲の様に翼を張って上る。走っても弱る事が無く、歩いても疲れない。」又「恐れるな、私はあなたと共にいる神。勢いを与えてあなたを助け、私の救いの右の手であなたを支える。」というみ言葉に力づけられ、私は「神様を信じてみよう!」と思いました。そして少しづつ心に与えて下さる平和によって、本当に神様はいらっしゃるのだと、分らせてくださいました。受洗のお恵みを頂いて初めて、私が探し求めていたのは神様ご自身のことだったのだと分りました。それから数年後にフォコラーレ運動に出会いました。友達から誘われるままに、大阪での集いに参加したのがきっかけでした。フォコラーレ運動はイタリアのキアラ・ルービックによって始められた運動で「皆が一つになるように」という、イエスさまの祈りが実現することを目指しています。そしてイエス様の新しい掟「私があなた方を愛したように互いに愛し合いなさい」という、み言葉を生きながら、全ての人と一致を築くことを最も大事にしています。この集いに参加するようになってイエス様が喜ばれるような愛し方を学びながら、日々生活の中で実践しているのですが、愛を生きることは本当に難しく感じていました。ちょうど職場で上司と、とても難しい関係が続いていたある日、初めて東京での大きな集いに参加した時の事です。一人のフォコラーレの人が話してくれた事が、今でも私の助けになっています。それは「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしてくれた事は、私にしてくれたことなのだ」というイエス様のみ言葉を引用して、「ちょっと努力して相手にしたことはイエス様にしたことになるんだよ」と。私はとても感動して、喜んで帰ってきました。そして次の日から早速、上司にお茶を入れる時も、イエス様にしたことになるなら嬉しいと思いながら持って行きました。以前には言ってくれていた「ありがとう」の言葉は返ってこなかったけれども、あきらめずに、気にしないように努めました。そうしているうちにある日「君の入れてくれたお茶はおいしいよ」と言ってくれたのです。この経験を通して、又本当に難しい時も、祈りと共に十字架のイエス様を思い、皆と一緒に生きることで、乗り越えることができると分りました。他にもフォコラーレで習った「自分から先に愛する」「相手と一つになる」「全ての人を愛する」等、このような愛し方を通して、これからも神様の愛に応えていきたいと心から願っています。

ルチアーノ神父様や皆さんとも、ご一緒にイエス様に向かって歩んで行けると思うと本当に嬉しいです。

一致に向かう道を最後まで歩んでいけますように、どうぞお祈りください。」

原田久代

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