ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

200861日 ・ 年間第九主日

福音 マタイ 7, 21-27

私に向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御心を行なう者が入るのです。その日には、大勢の者が私に言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、私は彼らにこう宣告します。『私はあなた方を全然知らない。不法をなす者ども。私から離れて行け。』 だから、私のこれらの言葉を聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、私のこれらの言葉を聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

福音を顧みて

人間の善さはその人が属する宗教によって保証されるのではなく、却って人間の行動によってこそ宗教の是非が現れるのです。主が仰った通りに、「木の性質はその実から分かる」のです。真の宗教心は、改宗のことではなく、改心です。イエスの言葉は、私たちの生ぬるさに対して言えば大変に厳しく、私たちのまじめさに当てて言えば大変に力強いものです。人間同士では、ごまかしが利くことがたびたびあっても、神の前では私たち一人一人が有りのままに見られる岳です。「全てのものが神の前には裸である」(へブ4,13)。今だに、自分の名称を挙げて神をごまかした一人はありません。神の前では、ただ「有りのまま」!

福音を読むと必ず驚かさせられるのは、イエスが罪びとに対してはきわめて慈悲深かったのに、ファリサイ人たちには非常に硬い言葉を宛てられたことです。「偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにその通りです。この民は、口先では私を敬うが、その心は、私から遠く離れている」(マタイ15,7-8)。結局、神の前では、外面的に聖人の真似をする偽宗教者より、罪の現状をさらけ出す罪びとの方が神の国に近いです。現状を認めることは帰依の第一歩です。「私に向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではない」、と仰る主は、中途半端な生き方に満足しがちな私たちにとって、何より頼もしい主です。人間性の尊さを簡単に見失いがちな私たちには、神の子としての自尊心を思い起させ、薄暗い生き方に断念しがちな私たちには、清い明かりへ憧れる心をよみがえらせてくださいます。素晴らしい奇跡を行ったり、立派な説教を述べたりするより、貧しい有りのままの自分を主に頼みましょう。世間では、人に迷惑をかけない面目を施すことは、最高に正しい生き方と思われるが、しかし思いがけない誤解が起これば、面目を失い、自尊が傷つけられ、世話好きな者はいきなり排他主義者と変わります。人面を憚る者は弱いです。「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」!。主の頼もしい面目を求めながら、私たちも社会の頼もしい面目になりましょう!

その都度その都度、もし主は私の変わりにおられたら、どうなさるでしょう!と自問しながら、歩調を正して偏らず一歩一歩進んでいく内に、主の力強い同伴を体験いたします。

今週の福音

01 マタイ 6, 24-34

02 マルコ 12, 1-12

03 マルコ 12, 13-17

04 マルコ 12, 18-27

05 マルコ 12, 28-34

06 マルコ 12, 35-37

07 マルコ 12, 38-44

08 マタイ 9, 36 – 10,8

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聖アンブロージオ小教区民とミラノに住むカトリック日本人の交流御ミサ(52519) は素晴らしい恵みの機会でした。聖堂は満員で、日本人は11人だけだったけれども、キリストの祭壇を囲んで一家族の雰囲気でした。ミサ聖祭の日本人グループの役割はルチアーノ神父の説教に次いで、聖アンブロージオ教会の聖歌隊が歌う静かなグレゴリアン聖歌に続いて、「ガリラヤの風かおる丘」の合唱、聖体拝領後には渋川美香理さんのハープメロディー、ミサの終わりに日蓮宗の僧侶で、ミラノで歌を勉強している竜沢経一さんが声明を唱えました。イタリア人たちも興味深く聴き入っていました。ミサ後には日本人とイタリア人達との分かち合いで、折り紙の展示、民謡、日本茶の茶話会等が行われました。聖アンブロージオの皆さん、有難う!

ルチアーノ神父

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麻田牧子さん、ご結婚おめでとう!

(結婚式は53011時サンガエタノ教会で行われます)

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追悼

61日(日)の11.30のミサには、次の追悼が挙げられます。

  • 福田達さんの祖父(先日逝去)。お勤めの事情で帰国が出来なかった達さんは、一回ミサに与かった体験を思い出して、教会に追悼を願ってきました。お悔やみを申しながら、懐かしいお祖父様の平安を祈ります。

  • 一ヶ月前に幼なくして神様の元に召されたトミー君のご両親、そして御家族のお友達から追悼を挙げる依頼がありました。トミー君は天国のお庭で美しいお花の蕾と成りました。広い天国では思う存分、天使たちと遊べますように。

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五月は日本もイタリアにも薔薇が咲く時節です。薔薇の花は茨に守られて鮮やかに咲くのです。同じく信仰の道も花びらと茨が、神に向かって歩む人間に伴う友です。祈りについて玲子さんの文章を皆さんに送ります。

祈り

最近は世の中で色んな事が起きて、お祈りの範囲を積極的に広げて行かなくてはと言う気持にかられます。受洗のキッカケと言うのはその人夫々によって色々ですが、神様はその人に合った時期をお与えになるそうです。でも私が黙想会で知合った人達は「苦しみがあったからこそ、自分はここ迄信仰を求め続けて来られた」と言う人が殆どです。ある、カナダ人の神父様が「悲しみはお祈りである」と仰いましたが、本当にそうだと思います。神様の渇きと自分の渇きを一致させて、私にとったらお祈りは魂の癒しです。悲しみによって、清められ、十字架上のイエス様に近づき、信仰を求め、神様が御自分の方に導いて下さいます。私達信徒に出来る宣教の1つとして、求道者や未信者の為に“祈る”事も出来ます。今年の御復活祭にも多くの方々が神様からお恵みを頂いて受洗なさいました。一人でも多くの人が、信仰を持つ事が出来たら、私達信徒にとっても嬉しい事です。お祈りをして、聖霊様の照らしによって、神様の愛を感じる事が出来て、他の人にも愛の手を差し伸べる事が出来、又宣教に努めることが出来れば、もっと大きな喜びになります。そして死の迎え方も違うでしょう。私は神様の大きな愛を感じる時、自分は至らない者だとしか感じませんが、神様が私達を選んで下さいました。洗礼で受けとったローソク、信仰の火を、次の方達に移して、実を結び、実が残りますように。

昔、我が家の近所に住んでいた1人暮らしの老婦人が、今はミラノ郊外の老人ホームに入っていらっしゃいます。身寄りの無いこのお年寄りを時々訪問します。朝から行って話しを聞いてあげて、一緒にお昼御飯を頂いて、彼女達がお昼寝をしている間に、私は、天井の高い、古い大きな御聖堂で1人でお祈りをします。聖書とか本を読んでその内にお祈りに入ります。イエス様に私の中にお入り下さるように祈って、私が気がつかない闇の世界を照らして頂いて、傷を癒して頂いて、聖霊様の助けを頼み、深く集中して、イエス様との交わりに入る様、努めます。「イエス様ならどの様にお感じになって、どの様に愛され、どの様に見られ、どの様に反応され、どの様に行われるでしょうか・・・」

彼女達がお昼寝から覚めた頃を見計らってお部屋へ帰って、一緒に広間へ行ってロザリオの祈りを唱えて、又その時々に必要なお祈りをします。後はアヴェマリア等を歌って、帰ります。郊外ですので行く事も気持が良いのですが、何といっても私の訪問を心待ちにしているお年寄りが喜んでくれるのが、私の喜びとなって、愛が相互の物に成ります。

母が神様に召されて以来、私はこの4年間、どうしていないのかしら、「死」とは何かと、探し続けました。本のタイトルも「死」についてばかり目につきました。ある本に、「死とは、地上の共同体から、勝利の共同体への過ぎ越しである」と書いてありました。でも私にとったら、何の言葉も耳に入らなく悲しいだけでした。でも最近ある人の死へのいきさつを知らされて、ヤット答えが帰って来ました。私に返ってきた答えは「平安」です。死が近づくと神様は聖霊様をお遣わしなって、平安に満たされます。何でも全てがこうだと言う事は出来ませんが、私が見て来た人達はそうでした。私にとったら死とは、いつも自分が透明である様に努めていれば、天に行く時は、肉体が離れるだけで、私自身には変わりがないと思っています。                    古谷野玲子

アントニー・デ・メロ神父様の「心の歌集」から1つの歌を載せさせて頂きます。

何もかもなげうって、

死さえもいとわないほど、

価値のある宝がみつかった時にこそ、

人は本当の意味で生きる。

次の文章はある神父様がお書きになって、皆様に読んで下さいと、御受難会に置いていらっしゃいましたので、御紹介させて頂きます。

イエスから頂いた処方箋

先日、体調を悪くしたようなので、健康診断を受けたいと思ってイエスの診療所に行きました。検査の結果、私の体に具合の良くないところがあると診断され、自分でもそれを心から納得しました。

イエスは先ず私の血圧を測りました。そして、「慈愛」の血圧がとても低いと言いました。

次に体温を測りました。「利己主義」(エゴイズム)の熱が高く、40度もありました。

心電図の検査では、「愛」のバイパスが何本か必要だといわれました。なぜなら、いつのまにか「孤立」しているので、心臓に「生きがい」と希望が十分に循環していないらしいのです。

次に、歩行困難の症状で整形外科に回されました。実際に出会っている兄弟姉妹と「共に歩む」ことが出来なくなっているからです。確かに「虚栄」あるいは「自分の見栄」にいつも躓いています。

その後、近視が強いから眼科にも行くようにと言われました。本当に私の周りの人々を見る時、その人の「否定的な部分」しか見えていません。

さらに耳鼻科にも行きました。イエスは今の私には「彼の声」が聞こえていないと診断しました。

イエスは優しい方なので診察は無料でしたから、私はお金を払わなくて済みました。

ただ、次のような処方箋が施されました。

1.毎朝起きたら、「感謝」の水をコップ1杯飲むこと。

2.職場にはいる時、「安らぎ」をスプーンに1杯飲むこと。

3.一時間ごとに、「忍耐」の錠剤と「謙遜」のカプセルを飲むこと。

4.家に帰るとき、家族への「愛」の注射を受けること。

5.寝る前に、「安らぎの良心」の錠剤を二錠飲むこと。

イエスに賛美と感謝

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