ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

542008年 ・ 昇天祭

福音 マタイ 28, 16-20

しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。

そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、一切の権威が与えられています。

それ故、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、私があなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます。」

福音を顧みて

「私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、。。。」!これは昇天祭のミサに第二朗読として読まれるエフェソ書の一節で、昇天なさる主を見送る弟子たちの率直な叫びです。御父に帰られる主を見つめていた弟子たちは、別れの悲しみどころか、溢れる喜びを抱いたわけです。

昇天祭が、驚きの祭日である理由は、主の昇天は私たちの救いと密接に絡んでいるからです。結局、御父のもとに帰省なさる主が、「世界の果てまで」弟子たちを送る唯一の主です。いわば、弟子に働き場を譲るために主が退かれるのです。退いても、世界の果てまで出発する弟子たちの心身に聖霊を吹きかけてくださる主です。やっと自立して、自分の道を歩み出す子供を見送る母親が、出家する子供に絶えざる思いをはせているように。。。主の思いは生きた霊です。

最後の晩餐で主が仰ったお言葉を思い出しましょう。「食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかし私は、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。」(ルカ22,27)。宴会が盛り上がるにつれて、すなわち弟子たちの間に共同体性が実れば、弟子たちの出番を邪魔しないようにというか、給仕と支度に尽くした僕である主が、姿を取り消してくださいます。すなわち、弟子の出演は師の光栄だからです。「しかし、私は真実を言います。私が去って行くことは、あなたがたにとって益なのです」。

昇天は、私たちに対する主の細かい念入りな作法です。去っても、私たちを孤児として残さず、天から聖霊を吹きかけて止まない主です。

追加

今朝(五月一日)上記の感想を書き終えたとき、電話が鳴りました。受話器を耳に寄せたら、女性の声が聞こえて「トミーが危篤です。出来れば、トミーに祝福の祈りをとなえに来てくださいませんか」と言いました。トミーちゃんはやく3歳の幼児で、去年から急性白血病にかかって、骨髄移植のために入院しては退院、退院しては入院の連続の一年でした。それでも、トラックの運転手を務めるお父さんが仕事から帰ってくると、一緒にブルドーザーや生コン車のおもちゃで楽しく遊んだりしながら、屋内の生活を送ってきました。3月に洗礼を授かり、お母さんが「神の子羊」という名前を与えてあげました。今日、病油をもって彼らの家にかけつけたら、呼吸が苦しいのでトミーちゃんはお父さんとお母さんの間にソファーベッドに座っていました。顔が真っ白!多分、大人の世界が引き起こす汚染による感染の犠牲者かも、。。。トミーちゃんの姿は全く世の中を清める「神の子羊」です。

昇天された主は、遠く離れたのではない、。。。今日、喘ぐ(あえぐ)トミーちゃんの姿には主の面影が映っていました。「場所を用意しに行く。。。用意したら、戻って来て、あなた方を私の所に迎える」(ヨハネ14,2-3)。

52日:トミーちゃんの魂は天使たちに連れれてもらって、天国に辿りつきました。 きっと、天国で元気に、車のおもちゃで遊び続けることでしょう。

今週の毎日の福音

04 マたい 28, 16-20

05 ヨハネ 16, 29-33

06 ヨハネ 17, 1-11

07 ヨハネ 17, 11-19

08 ヨハネ 17, 20-26

09 ヨハネ 21, 15-19

10 ヨハネ 21, 20-25

11 ヨハネ 20, 19-23

* * * * * * * * *

天に昇った主は、私たちを孤児として残されない。却って、現世の道を私たちと共に歩きながら、私たちが落ちたら起してくださいます。原爆の災難においてもと、原爆被害者・西田さんが証かしてくださいます。

カトリック・ミラノ日本人教会の皆様へ (5

戦争が終わる一週間前の19458月9日は、私にとつて生涯忘れることの出来ない痛恨の日です。この日長崎は米軍機による原子爆弾の爆撃をうけ、特に中心地となった浦上地帯は壊滅的な被害を蒙りました。当日の朝、たまたま学校から指導に見えた工藤先生から、三日前の8月6日に広島に新型の爆弾が投下され相当の被害があったことを知らされましたが、長崎にも同じ新型爆弾(原子爆弾)が投下されたのです。当初は小倉(現在の北九州市)が爆撃の目標でしたが、天候の加減で小倉での爆弾の投下が出来ず、基地に帰る途中、次の目標であった長崎上空が、たまたま晴れていたため投下したとのことです。午前11時2分のことでした。一瞬の閃光と轟音・風圧が襲い、鉄骨構造の大きな工場は瞬時に倒壊し私はその下敷きになり負傷しました。周囲は真っ暗闇となり天井からは屋根瓦やガラスの破片などが落ちて来ました。世の終わりが来たのかと思いました。しばらくすると明るさが増し落下物も収まりました。私は瓦礫をかき分けて外に這い出ました。周囲はすべて廃墟と化していました。この爆弾は市の北部の浦上の中心地松山町上空五百メートルで炸裂し、その強烈な熱線と爆風・放射能により一瞬にして浦上を中心とした市全体に大きな被害をもたらしました。そしてこの日私は六名の家族(母・弟三名・妹二名)・多くの親戚、友人、知人を失いました。たった一発の爆弾でこんなにも世の中が変わったことに強い憤りと悲しみを覚えます。かかる惨事が二度と起こらないことを心より願う者です。「長崎市政六十五年史」によると、当時の総人口は24万人で、被害状況は死者7万3千884人、負傷者7万4千909人・罹災戸数は総戸数の38%と記されています。なおその時生き延びても、多くの人がその後放射能の障害のため死亡したり、後遺症に苦しんだと言われます。

長崎に投下された原爆(プルトニューム爆弾・22キロトン)の威力は

  1. 破壊力はTNT火薬2万2千トンと同じ威力がある。

  2. 温度は5千度以上と言われ、太陽の表面温度に匹敵する。

  3. 風圧は秒速250-350メートルで、台風の速度と比べ段違いの速さ。

  4. 放射能は目に見えない形で体内に貯留し、長期にわたる影響を与える。

同じく入所した同級生四名のうち、二名は工場外で作業していて大火傷のため死亡し、一名は行方不明となりました。私は途中で工場内の仕事に変わった為一命を取り留めました。まさに壁一重の生還でした。工場を脱出し山の防空壕へと避難、そこで二時間ほど気を失っていました。気がつくと体全体に痛みを感じ、あちこちで血が流れていました。

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