ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

1272008

年間第三日曜日 

(ミラノのアンブロジァノ典礼では、年間第三日曜日は聖家族の祝日に決まっているので、その福音を紹介します)

福音 ルカ 2,41-52

イエスの両親は過越際には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの習慣に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を探し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いていた人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親は、イエスを見て驚き、母が言った。「何故こんなことをしてくれたのです。」すると、イエスは言われた。「どうして私を捜したのですか。私は自分の父の家にいるのは当たり前だとということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に使えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人に愛された。 

福音を顧みて

今日の福音によれば、イエスの家庭生活は私たちの生活と、ほとんど変わっていなかったことに驚かざるを得ないでしょう。どこの家庭にも、子供の成長に伴って経験する試練や不安が、やはりナザレの聖家族にも及んだのです。こうして、今まで親の見守りのもとに動いておられたイエスは、少年期に成長して両親と共に初めて都エルサレムまで行かれたとき、親の許しを得ずに三日間も一人でエルサレムに残られた。不安そうに捜しに来た両親に対しては、お詫びするどころか、自分のことがあるから、心配しないでほしいという、ちょっと生意気な返事をされました。母マリアは「何故こんなことをしてくれたのです」と嘆く他は出来ない状態でした。「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」と率直に書いてあるのです。「はい、お母さん!」「はい、お父さん!」と答えるように、どこの親もわが子に教える行儀作法です。「どうして私を捜したのですか」という口答えが、いくらか私たちの子供の反抗を思い出させるのです。それでも、いや!それ故に、ナザレの家族は正に「聖家族です」。

どの時代にも家庭の一致と融和が社会福祉の保障とされているが、それを得るために何が基準かと問えば、昔と現代の人々の納得は、随分異なります。昔の人にとっては、子供を押し付ける親の権力によるとされ、その反面、現代の人にとっては子供の自由自在主義に沿うことにあると思いがちです。大人の押し付け主義によっても、子供の自由自在主義によるよっても、それだけに家庭内の一致と融和を実らすことは出来ないことをナザレの聖家族からの戒めです。却って、自分たちの家庭が神の広くて深い御摂理の中に生かされ、守られていることを認めることからこそ、家族の全員の一致と平和が湧くのです。大人の押し付けも子供の自由自在も、どちらをも越える広くて深い神の心に開かれることによって、規制も自由自在も超える愛の範囲において一致を見出すのです。神の御摂理においては、昔のことも現代のことも生き生きとした調和を成し遂げるのです。家族の一人一人の心を、より広くてより深いものに開けるように導いてくれるのは、生命の泉を拝む信仰、生命の目的に励ませてくれる希望、永遠の生命に万物を結ぶ愛です。こうして、大人も子供も「神の見守り」の下に一緒に成長し、試練や不安が健全な家庭の道のりです。

見解の相違を恐れず、問題が生じないように平凡な統一を計かる誘惑に抵抗して生きる家族こそ、ナザレの聖家族の友です。「家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を。。。捨てた者は永遠の命を受け継ぐ」(マタイ19,29)。福音によれば、家を真に愛する人は、「出家」する覚悟あるものです。血筋による家族は「神の国」の大家族に向かう旅の出発点です。一員一員独特な性格や使命感を生かしながら、互いに尊重し、愛し合う間柄こそは家族を聖なるものになしてくれる環境です。少年期に成長した子供に個室を与え、自分の個性を咲かす小畑にしてもらうと同時に、家族がそろって食事をしたり、会話したり、お祈りを唱えたりする皆の部屋を備えた家は、ナザレの聖家族の模範を現代に適用させてくれます。戸を叩いてから子供の個室にたまに寄らせてもらう母親が部屋の持ち方を通して如何に子供の個性が咲いて来るか見て、驚くでしょう。聖母がいくらに驚いて、心の中に感謝を覚えたのでしょね。

福音の響き

今日は、昔の「祈祷書」にある「家庭のための祈り」の標準語形を。。。

聖家族に対して自身の家族のためにする祈り

いつくしみ深いイエズスよ、あなたはこの世において

お選びになったナザレトの聖家族をもって、

完全な善徳と家庭生活のかがみをお示しになった。

いま、あなたのみ前にひざまづいて、

おんあわれみを願う私たちの家族をごらん下さい。

わたしたちは、自分自身と私たちの家庭を主にお捧げいたしますので、

どうかそれがいつもあなたのものであることを思い出して下さい。

いつくしみをもって私たちを守り、必要のときに助け、

絶えず主の聖家族のおん徳に習わせて下さい。

常に主を敬い、愛し、ついには天国において私たち皆が

ともに永遠に主を賛美することができますように。

もっとも愛する聖母マリア、私たちはあなたのおん子が

必ずあなたの祈りをきき入れて下さることを固く信じ、

ひたすらおん助けをお願いします。

もっともさいわいなる聖ヨセフ、あなたの保護をもって私たちを助け、

聖母マリアとともに私たちの願いを

イエズス・キリストに取次ぎください。アーメン。

今週の毎日の福音

27 ルカ , 41-52

28 マルコ 3, 22-30

29 マルコ 3, 31-35

30 マルコ 4, 1-20

31 マルコ 4, 21-25

01 マルコ 4,26-34

02 マルコ 4, 35-41

03日 マタイ 5,1-12

お知らせ

一月23-24日。種子島カトリック教会の前田光範・マリ御夫妻は新婚旅行の先でミラノの日本人カトリック教会を訪ねて来ました。木曜日晩の御ミサにも、求道者研修会にも預かり、日本からの新しい便りを伝えて下さり、懐かしい出会いでした。24日夜、Malpensa空港から日本へ。。。 頑張れ!聖母の見守りの下に。

ほのぼの雑記

日本では、古くは春秋ともに霞(かすみ)とも霧ともいったが、平安時代以降、春立つのを霞、秋立つのを霧と呼び分けたそう。気象観測では水平指定が1km未満の場合を言い、1km以上は靄(もや)というそう。

ちなみにイタリア語では濃い霧をNebbia(ネッビア)といい、それよりも薄いものをFoschia(フォスキーア)、湿気のある霧をBruma(ブルーマ)と呼ぶ。そして車の排気ガスが混ざったものを英語同様Smogともいう。けれど、季節で言い分ける日本語は情緒があって美しい。

『春の野に霧立ち渡り降る雪と 人の見るまで梅の花散る』雪かと思うほどに、白い花が散って来るという意味。万葉時代はまだ梅は白い花ばかりで紅梅は日本に入っていなかったらしい。ミラノのポプラの綿毛と違って美しい情景である。(我が家の近所は春になるとポプラの綿毛が雪のごとく舞います!!)

こちらはミラノの方言で『霧も肺に入って楽しい・・・』という言い回しもある。ミラノは健康の町・・・霧は美しいLassa purhttp://www.youtube.com/watch?v=P4LjjICMt6w。肺に入って楽しい・・・雪が降ったら、山へ行かなくてもスキーが出来る。その後雨が降ればころころ転び、パネットーネも一緒に混ざる・・・誰でもミラネゾーネ(ミラネーゼ・ミラノの人を尊大に?表現)を楽しんでいる・・・う~~~ん、いかがでしょうか?!

荻原智子

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