ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

20081019日 ・ 年間第二十九主日

福音 マタイ 2215-21

〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

福音を顧みて

最近、神か仏陀の名を利用して、暴力を行使する宗派が増え、人類に思いがけない災いをもたらして来ました。ツインタワーやネルヴィンガスの事件もこういったグループの惨たらしい仕業です。宗教心は水や火の様に掛け替えのない宝ですが、その範囲のけじめを守らないなら、水害や火災が起こる様に、宗教心からテロ事件が勃興します。大概、どんな宗教も尊い教理を唱えてはいますが、尊い教えを仮面として最悪の事件を働く危険性を孕んでいます。宗教と現実の範囲は混雑すれば、その危険ははびこり易いです。荒れ野で修行をなさったイエスも、「神の子なら、この石にパンになるようにと命じたらどうだ」と悪魔に誘われたが、「人はパンだけで生きる者ではない」(ルカ43)と厳しくお断りになりました。大司祭から死刑を宣告される場にあった時も、冷静さを保った主は、「私の国はこの世に属していない」(ヨハネ1836)と明白に宣言なさいました。

今日の福音には、永遠なるものを求める宗教と現生の事柄を司る政治は、合い重なったり絡み合ったりしてはならないという教えを見事にまとめた一節があります。というのは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」です。政治の致し方には右もあり、左もあり、様々の見解があって、却って政治界が健全ですが、神を求める道沿いには、ただ自分の考えを遥かに超越した「聖なるもの」を求める巡礼者しか並んでいません。政治の事柄に於いては、一人々が自分の見解を打ち出して互いに論じ合うなら、必ず正しい結果が得られますが、神の前では、返って黙って聞く姿勢が正しいです。

それでも、今日の福音はよく紙上に訴えられる政教分離を応援している訳でもありません。ただ、次元が違うので、混雑しない様にと指示してくれます。やはり、神の国を求める宗教も現生の秩序を営む政治も、どちらも、今、ここに、実在している私達の為にあるものです。人生の道を歩む私達は、常に自分の視野より広い空に抱かれている故に宗教心を持ち、同時に行き先に注意して、一歩一歩と進まなければならない故に、現世を司る政治に深い興味を当てています。空に輝く星に見とられて目先の足置き場を見失ったら戸惑いますが、空に目を休ませる事が出来ない狭いトンネルの中を走る時も、同じく緊張になります。人道は無限のものを求めながら、同時に過ぎ去るこの日、この一瞬の一歩を大事にする生き方です。樹木は変わらない深い根を持つ故に、四季の天候に応じて葉の彩りが変化します。根は宗教であれば、葉は現世の事柄です。

確かに、キリストの道は二つの忠実の交差点です。天だけを仰いで生きるか、または逆に地だけに目を向けて生きるか、というのは私達の魂を煩う疑問です。ただ一つを選んで、もう一つを無視すれば、余り苦労せずに一生を送る事が出来るかも知れません。しかし、天も愛し、地も愛するなら、二つの愛が組み合って十字架の形をなしてしまいます。日曜日のミサへ参加したいけれども、家庭や町内会の行事が重なると、二者拓一の苦しさを覚えます。天が教えて下さる無欲の心も、実生活が請求する営利の心も私達一人々の心です。その為に私達がいつも十字路に立たされていますが、言わば立ち往生の十字架を痛感します。敬天愛人という表現がありますが、やはり反り合う二つの次元を一緒に整えるのは愛だけです。愛の生き方とは、日常の細かい事柄に無限の理想を注ぎ、また高い理想を温かい体でふさぐ事です。この世の事柄を司る皇帝と永遠の国を治める神に税を払って生きましょう。天上と地上との繋がりに愛の園が広がります。

分かち合い

このところ御受難会での黙想会に続けて行きました。「大きな神の沈黙に入る」1泊黙想会、4泊5日のサダナ黙想会、1泊のカリスマ黙想会と帰って来たばかりでまだ余韻から覚めない感じです。夫々の黙想会によって色々な特徴があります。15日は毎年カルメル観想修道会へ行ってアビラの大聖テレジアにお祈りしていたのですが、今年は黙想会の最終日の御ミサで、塗油の秘跡を頂いて聖霊様の癒しを頂きました。黙想会中での毎日の御ミサは段々と中に沁みこんで来てウットリしてきます。大きな沢山のお恵みを頂いて神様に感謝するのみです。

今週の第一朗読イザヤの予言では油の事が書かれています。私には「日の昇るところから日の沈むところまで」と言う箇所が響きます。その次の答唱詩編では神の栄光が賛美されます。そして第二朗読使徒パウロのテサロニケの教会への手紙では、「恵みと平和(シャローム)、力と聖霊(光)と強い確信」どこをみても愛に満ちています。そして福音に入って「神のものは神に返しなさい」という箇所でも神様の愛を受けて、1信徒としてどういう風にして私は神様の愛にお答え出来るのでしょう。お祈りをして奉仕をして私なりに出来る事をしたいと思います。そして御ミサには普段の全てをお捧げしたいと思います。

話は前に戻りますが、黙想会中の中日に、私のお誕生日が挟まれていて、黙想会のお仲間達がお誕生祝いをしてくれる事迄神様が用意して下さいました。あるプロテスタントの人が参加していて毎晩私達の為にロザリオを作って皆に下さいました。又シスターからは、ホスチアをカットした後のスケルトンとレシピも頂いたので、先ず家で少しずつウイロ風ホスチアとホスチアピザを作ってとても美味しかったので、教会のサークルに持って行こうと思います。お友達にもホスチアを一杯食べて貰います。又スケルトンで作ったお饂飩も頂いて、見た目にも手打ち饂飩の感じで美味しく頂きました。澄玲

今週の福音

19 () マタイ 2215 -21

20 () ル カ 1213 -21

21 () ル カ 1235 -38

22 () ル カ 1239 -48

23 () ル カ 1249 -53

24 () ル カ 1254 -59

25 () ル カ 131 – 9

26 () マタイ 2234 -40

新版アンブロージョの典礼についての研修会

皆さん、お元気ですか。気温が変わりやすいこの頃ですので、充分お体に気をつけて下さいます様に。
さて、教皇様の承認を受け、新しいRito Ambrosianoアンブロージョの典礼が、来月の16日(待降節第一日曜日)発足します。それに備えて、ミラノ司教区のテッタマンツィ大司教様が全教区民に司牧的な手紙をお送りになり、今週中司教館でその分配 が行われています。私の手元にも100枚程届きました。
イタリアでもミラノ司教区以外は日本同様全てローマ典礼ですが、ミラノだけはこのアンブロージョ典礼で御ミサが挙げられます。この聖アンブロージョは、ミラノ市の守護聖人で12月7日はミラノ市はお祝いで学校も会社も全部お休みです。聖アンブロージョ教会の回りではお祭りの市がたちます。教会の典礼であるだけでも、アンブロージョ典礼を知る事は有意義です。

信者として嬉しい義務でもあります。それで、来週の木曜日(23日)1000から一時間半ほど新Rito Ambrosianoを知る会をこの司祭館で開きたいと思います。お友達をお誘いの上いらっしゃいます様お待ち致しております。

ルチアーノ神父

福本由美さん、デルプラト・アルベルトさん、ご結婚おめでとう御座います!

来る25日(土曜日)11.00Santa Eufemia聖エウフェーニャ 教会 (Corso Italia)で福本由美さんとDel Prato Albertoさん御二人は神様の祭壇の前で目出度く一生涯変わることのない愛を誓われます。幸せな家庭作りを祈り、世界の国民が結び合う事を感謝します。由美さん、アルベルトさん、ご結婚おめでとう御座います!

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