ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi 神父)
2月24日 2008年-四旬節第3日曜日
ヨハネによる福音4,5-42
以下は四旬節第三日曜日に読まれる福音の抜粋です(4, 21-26)
「イエスは言われた。「婦人よ、私を信じなさい。あなた方が、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなた方は知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝するものを求めておられるからだ」。女が言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこの私である。」
福音を顧みて
新しい命をもたらす洗礼の秘跡を施すために最適の「時」は、復活祭の徹夜です。キリストを信じる人は、キリストと共に死に、キリストと共に復活するのだから、夜を徹して朝日が昇ることを待つ姿勢は、信仰の基本です。故に、四旬節間の日曜日ごとに福音の基礎的な箇所を読み、それを黙想し、自分の生活の栄養にこなすことになっています。今日の福音においてサマリアの女と出会う主が、確かに基本的な教えを私たちに伝えてくれます。上記の抜粋はその一節で、神に対して拝む心、接する心、その深い動機を示しています。
キリストを信じる人は、先ず歴史の流れをよく観察して、その中に神から伝わって来る御旨を見抜きます。歴史は、神の密かな導きを浮き彫りにしてくれる場所だからです。しかし、世の中に起こる出来事を自分の到着点とみなしてそれに満足するどころか、そこから出発して更に深く神の心に近づく巡礼をし続けるのです。旧約聖書が語る礼拝は、新約の礼拝へ至る巡礼にほかならないし、ギリシャの哲学も、ローマ帝国の法典も、日本の文化も、諸国民の経験は、新約の礼拝に案内してくれる歴史の浮き彫りです。旧約の礼拝には、何より大切なのは宗教的な体制で、すなわち礼拝の形や場所や伝統などです。新約の礼拝には、先ず心の自由が祈る人のふさわしい態度であり、祈りをささげる場所のふさわしいところです。「救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝するものを求めておられるからだ」。霊と真理をもって祈るとは!霊は、言うまでもなく一人一人の中に働く神の霊です。言い換えれば、聖霊が自分に内在していることを信じることこそ、霊による祈りの出発点です。天におられる絶対者の神を信じてだけでは、霊によって祈る心が湧いてこないので、主が仰るとおり自分の奥まった部屋に入り込んで、戸を閉めて沈黙のうちに祈るのです。霊と真理による礼拝を捧げるためには、内的な自分をよく守り、よく養成する態度からです。結局、洗礼を受けることは、他ならぬ神の思し召しに守られている尊い自分を復活させることです。洗礼を受けたい決心は、創造主の思し召しに守られている清い自分にあこがれる心から湧くでしょう。
受洗前は、伝統のしきたりに従っての、触りなしたたりなしという静寂主義は理想だったとしたら、洗礼によってキリストと一体された者は、恐怖の圧制から開放されて「霊と真理によって」礼拝を捧げるのです。霊と真理による礼拝は、霊と真理による生き方の原理です。霊と真理による人間関係、職場の雰意気、政治の執行、そして教会の司牧を夢見てみましょう。やはり、洗礼の水に万物を浸して、もとよりの清さに戻ってほしいですね。そして、この自分自身も。。。 求道者の皆さんに励ましとして。
福音の響き
霊と真理による礼拝は、実生活の中にあって祈る心で、資源や財産の使用にも及びます。所有物に執着する心には祈る気配もないでしょうね。以下はベネヂクト十六世教皇の四旬節メッセージより第一・ニ章です。 続く
愛する兄弟姉妹の皆さん、 1. 四旬節は毎年、わたしたちにキリスト者として生きることの意味と価値を深めるための摂理的な機会を与えてくれます。四旬節の間、わたしたちは神のいつく しみを再び見いだすことによって、兄弟姉妹に対してもっとやさしくなれるよう促されます。教会には、四旬節中、この内的刷新のプロセスにおいて信者が具体 的に取り組むべき特別な務めを提案する義務があります。それは、「祈り、断食、施し」です。今年の四旬節メッセージでは、施しの実践についてしばらく考え てみたいと思います。施しは、困っている人々を助ける具体的な方法であるだけでなく、自制することで地上の物への執着から自らを解放する鍛錬でもありま す。物質的な富には人を引き付ける力がありますが、それらを偶像化しないようにわたしたちは確固たる決断をしなくてはなりません。イエスは、はっきりと断 言しています。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(ルカ16・13)。施しは、わたしたちがそうした絶え間ない誘惑に打ち勝つのを助けて くれます。隣人の必要にこたえて、神的な寛大さによってわたしたちが所有しているあらゆる物を他者と分かち合うことを教えてくれるからです。これこそ、四 旬節中に世界各地で推進される、貧しい人々のための特別献金の目的なのです。このように内的浄化には、すでに初代教会においても見られるとおり、教会的交 わりの行為が伴います。聖パウロは、その手紙の中で、エルサレムの共同体のための募金に関連して、このことを述べています(二コリント8~9、ローマ 15・25-27参照)。 2. 福音の教えによれば、わたしたちは自分の持ち物の所有者ではなく管理者です。ですから、それらを自分だけの独占的な所有物とみなすべきではありません。 むしろ主は、それらを用いて、神の摂理に仕える者として隣人のために行動するようわたしたち一人ひとりに呼びかけておられます。『カトリック教会のカテキ ズム』(2404番参照)が示すように、物的財の普遍的使用目的の原則によれば、物質的な物には社会的価値があるのです。 |
今週の毎日の福音
24日 ヨハネ 4, 5-42
25 月 ルカ 4, 24-30
26 火 マたイ 18, 21-35
27水 マたイ 5, 17-19
28木 ルカ 11, 14-23
29金 マルコ 12, 28-34
01土 ルカ 18,9-14
02日 ヨハネ 9, 1-41
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