ミラノ日本人カトリック教会

Milano Cappellania Cattolica Giapponese

(Luciano Mazzocchi 神父)

200921日-公現節第四日曜日

福音ルカ822-25

突風を静める ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。弟子達は近寄ってイエスを起し、「先生、先生、おぼれそうです。」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。

福音を顧みて

波が荒い時の船旅は非常にきついです!とは、八年間も種子島に滞在して何度も船酔いを堪えた事があるこの私の体験です。船の二等の客間に横たわった何百人の旅行者が、荒波が起こる度に、右に転んだり、左に転がったりする光景!嘔吐する客がいても、気付く気力さえない状況。その記憶のもとに、突風が吹き出しても静かに眠り続けるイエスの姿は、何と羨ましい事ですね。嵐に対面する段階には、恐れて脅えるか、あるいは勇気を出して波の力に耐えて超えるか、二者託一です。

イエスは海を叱ると、凪になったとあります。嵐を止める力は、「内なる力」から生まれたのです。私達は、「内なる力」から起さず、平和を他人に要求し、レストランでピッツァを注文する様に、他人が給仕してくれるものだと思い込んでいます。与えられなかった場合、社会の無責任のせいだと嘆きます。平和と落ち着きの是非は、周りの環境次第!自分はただ受身の立場!

毎日、日が出る前にイエスは山に登って静かに祈っておられた。その修行のお陰で、イエスの魂は嵐の最中にも静まり返っていたと言っても良いです。枝が突風に吹かれても、根が深いお陰でしっかりと堪える樹木の様に、人間も自分の内なる根から樹液を受け、「内なる静けさ」をもって「外なる嵐」を鎮めます。

吹き降ろして来る嵐を凪に変える為の力は各自の「内なる静けさ」から始まります。日本で幼稚園の園長を勤めていた頃の出来事です。前日の晩まで空が澄み切っていたのに、遠足の当日は大雨。孫と遠足を楽しむ為に、遠方から祖父母方も大勢来ておられたのですが、残念ながら遠足は延期!雨天なら平常通りの授業に決まっていたので、当日の朝、色々の傘にかくまった園児達が登園する光景を眺めると、それまで暗くなっていた私の気持は、突然祓われたような気がして、遂に微笑んで園児を迎える事が出来ました。しかし、園児を同伴する親は、「残念でしたね」!と嘆き合ったりし、「神様(教会)の幼稚園なのに、どうして運がこんなに悪いでのしょうか」と話し合う二人の母親を傍聴しました。園舎の周囲は田んぼで、その朝の臨機応変授業として、水溜に飛び出す蛙の観察にする様に先生達に勧めました。水に飛び跳ねる蛙を紙に描く園児達は遠足の取り消しをすっかり忘れて、お絵描きの腕前を振るいました。子供が持ち帰った作品を見たお母さん達も慰められ、うっとうしい日はいきなり明るくなったに違いありません。お陰さまで、運が悪い「神様の幼稚園」の評判も助かりました。はしゃぐ子供でも、静まる大人より心が静かですね。信仰は「内なる静けさ〕の響きです。

「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。

分かち合い

下記に主人がコメントを載せさせて頂きましたが、私は先日の古谷野さんのコンサートの感想を分かち合いさせて頂きます。私は英文科を出ていますが、若い頃から声楽家のお友達が多く声楽愛好家です。1曲目、オラトリオの「ソロモンの裁き」の第一声で予感いたしましたが、素晴らしい声量と高いコロラトゥーラのぶれのない安定感のある響きに、私共教会の友人、他の聴衆一同、感動を覚えました。選曲も良く「歌の翼に」はアンコールに応えて二度も歌って下さいました。全部で7曲で、最後はオペラ「夢遊病の女」から、アリア2曲でした。あの華奢な御身体でよくもあのような声量とハイピッチで歌う事が出来るものだと感心し、後でお訊ねしたところ、「イタリア語がそのまま発声につながっているのよ」と言って居られました。でも謙遜でこれまでのたゆまぬ努力と節制があったものと推察しますが。本当に夢の様なひと時をお与え下さって神様に感謝です。 服部和子

今週の福音

01 () ル カ 822-25

02 (月)マルコ 524-34

03 () マルコ 61- 6

04 () マルコ 630-34

05 () マルコ 633-44

06 () マルコ 71-13

07 () マタイ2235-40

08 () ル カ 822-25

以下に読まれる服部光雄さんの証言は、諸宗教間の対話によって人々に与えられる広い視野を指してくれます。キリスト教の信仰にしっかりと根付いていてこそ、他の宗教にも類似点を発見し、キリスト教が指す真理を違った観点から見せてくれます。それによって、各自が歩む信仰の道は、より明るくより正しくされます。トンネルを渡るときに、両側にも予防の壁が立つので安全に走ることが出来るかと思ったら却って緊張し、トンネルを過ぎて広い景色に出たとたん、目も心も安らいで運転が穏やかにあります。

十字架のイエスを抱く釈迦の彫刻は、長野県諏訪郡富士見町境の高森草庵(ドミニコ会)に安置。

(ルチアーの神父)

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「私と古谷野様との出会いは、

カトリック宝塚教会を通じてでした。主日の御ミサ毎に、お互い顔見知りの関係でしたが、宝塚教会は何分出席者が多く、殆どお話をする機会に恵まれませんでした。しかし、昨年の秋、売布の御受難女子修道会での黙想会、 座禅を取り入れた一泊の黙想会で偶然お目に掛かりそれ以来、ミラノの皆様の事を教えて戴くようになりました。私は何分未熟者で在りますので、今後とも皆様のご指導をお願いする次第です。

9月の末に売布の御受難会でおこなわれた黙想会、多くのお恵みを戴きまして、神父様初め皆様には,ただただ感謝感激の思いです。

全能の主に栄光

私事で恐縮ですが、無我の心とは 御聖体の前で自分の心を沈黙させイエス様の大御心を戴ける様黙想しますと戴ける様です。イエス様の大御心は何と美しく 清く 暖かなそして大きな事でしょうか。

座禅の時には、無我の境地に入り イエス様の大御心を祈る時は良いのですが、凡夫の悲しさで自我(もっと良くしようとか 早く終わらないかなど)が出てくる状態です。振り子の状態。

今年は聖パウロ年ですが、先日仁川の教会で、釜ヶ崎でご活動のとある日本を代表する理髪師のお一人のご紹介で、ある神父様のお話をお聞きする事が出来ました。その中で聖パウロが「私は弱い時にこそ強い」との言葉を引用され老年を迎えた我々を、力強くお励まし下さいまして、大いに力付けられました。

又、クリスマス前の宝塚教会の黙想会では、沈黙の内に神様との会話の時間を戴きまして、大層有意義な黙想会でありました。沈黙の内に神様と対話は、何と素晴らしいことでしょうか!

以前、売布の黙想の家での神父様の座禅のご指導、古くは道元禅師の自然の中での禅修行、私には東西の霊性が見事に一致している様に思えますが如何でしょうか。いずれにしても、神様に感謝、感謝の心です。

東西の霊性の一致を求めて

古谷野様の文章、「融和を求めて」を大層興味深く読ませて戴きました。キリストと仏教との霊性の一致は日本の仏教諸派の開祖、最澄、空海、などの高僧を初めとして、鎌倉時代以降の、阿弥陀佛系の法然、親鸞,禅宗系の道元、そして法華経の精神を世に広める事を目的とした日蓮などは,最澄が仏教経典の中で、最高の経典とした法華経から出発しているそうです。法華経の骨子は、詳しい事は良く分かりませんが、ヨハネの福音書に良く似ているそうです。キリスト教では、父と子(キリスト)そして聖霊は神の三つの現れと定義されていますが、法華経でも人としてこの世に来られた御仏と聖霊としての御仏そして本源的な御仏のご三体が居られるそうです。空海の真言の教えによれば本源的な御仏は大日如来様だそうです。空海が入唐した当時首都の長安には、キリスト教の一派の景教の教会も在ったと考えられますし、景教の影響も十分受けたと考えられます。空海(お大師様)の現世への再来、お遍路さんの考えはなんだかキリスト教に似ている様ですね。一昨年、高野山に入山し宿坊に私達で宿泊しました。翌朝、朝の勤行にお与かりしましたが、その際お聞きした声明は日本の音楽、謡曲、浄瑠璃はては演歌に至るまで、日本の音楽の原点で有る事を確信しました。声明をお聞きした感じでは、何かカトリックのグレゴリオ聖歌に似た印象を受けました。この点でも、東西の霊性は互いに通じ合っているのではないでしょうか。何れにせよ、御神、御仏と我々が申し上げるお方はこの大宇宙の創造者ではないでしょうか。その創造者のお方の大御心は愛でありますから、全世界の人々は人種、宗教、言語、などを越えて全ての被造物と共に愛の大御心を規範として、秩序ある混沌の平和社会を目指すべきではないでしょうか。」   服部光雄

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