ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

2008119日 ・ 年間第三十二主日

福音 ヨハネ 213-22

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

福音を顧みて

何処の国にも、大概、結婚式の開幕は花婿が花嫁を迎える光景に決まっています。ところが、今日の福音の例え話には、花嫁が友達の乙女達と一緒に花婿を待つシーンを演じています。聖書には花婿がキリストを指し、花嫁が厳密に言えば教会を、広く解釈すれば世の中を、或いは天地全てを意味しています。結局、今日の例え話はキリストと出会いたい私達、大きい意味では天地万物の姿勢を描いています。そうです、存在する一切の物は、真・善・美に深く憧れ、それと出会い、また一致する事を切望しています。林檎の木も、天地の恵みを受けながら、色づいた美味しくて芳しい実を結びたい性質を持っている様に、人間も、誤って悪事を働いてしまう犯人も、元々は真・善・美に憧れ、それを実行できる度に深い喜びを覚えます。福音は真・善・美への道は、十字架の愛に掛かるほどを知るのだと教えています。その愛の「託身」はキリストです。

では、今日の福音にはキリストと出会う事を待つ私達に宛てた例え話で、

私達の心の真偽を確かめています。いわば、花婿が花嫁の真心をうかがう事です。例え話によれば、花婿を待つ乙女達の間に「真」の五人と「偽」の五人がいる訳です。不思議な事には、最後までその区別は全然目に見えず、どちらも祝いの着物を着け、貴重なランプを手に下げ、互いに花婿の偉大さを褒めたりしていました。乙女達の真偽が明らかになったのは、夜中に花婿が着いたとのお告げがあって、ランプをつけて暫くしてからです。即ち、用意の油が必要になった時です。愚かな乙女達は、目先だけの完全な支度を尽くしても、困難と対面して乗り越える心を育てていない訳です。結果は、何もかも易しい最初の一瞬は派手やかに振舞っていても、何かの困難が生じると、惨めにその派手さが消えてしまいます。一時の騒ぎに過ぎない生き方です。

一切を整えて、用意の油を忘れた愚かな乙女達にも、自分自身の行動を見抜く事は出来ます。例えば、長い旅を計画している時は、焦っていろんな準備をしますが、必ずと言ってもいいほど、出発してから一つの大事な物事を忘れている事に気付きます。帰ってやり直そうとしても無理だし、携帯電話を取り出して友達を煩わすほかはありません。同じ態度を日曜日のミサに与る信徒の皆さんにも見抜かれます。五分位早めに家を出たら、折角の御ミサに最初から参加できたのに、遅れて来る事もあります。こういった態度には、悪意が無くとも、一抹の物足りなさが残ります。

乙女達の着物や手に下げるランプが誰の目にもつきますが、ランプの用意の油に目を留めるのは主です。信仰の心が本物であれば、ランプが消えかかる時の為に用意の油まで備えておいてあります。それは、神学的な偉い理論を覚えておく訳でもなく、ご利益をもたらす特別な神頼みでもなく、ただ心の底に蓄えて置く「静けさ」や「謙遜さ」や「」素直さ」です。言い換えれば、花婿を待っている故に、すなわち信仰を持っている故に高ぶらない事です。そうです!信じる故に、自分が信じない人より偉いとか、聡いとか、正しいとかという考えが魂にかすめるかもしれません。そうであれば、心に穴が開いて用意の油が漏れてしまいます。信仰とは自分を誇示する物でもなく、人に押し付ける物でもなく、又受洗と同時に手に入る物ではなく、あくまでもへりくだって、自分を下に置いて、神様の御旨を聞く事が出来る様、神様の愛に交わる事です。毎日の私達の小さな歩みを神様はご存知です。信仰心は本物であれば、謙遜さを宿し、それこそが目につかない「用意の油」です。

分かち合い

時々賛美をしに行きます。お仲間と先ず聖歌を歌って賛美をしてお祈りに入ります。新たにパワーを頂いて、聖霊様に癒して頂いて大きな喜び、お恵みを頂きます。ある時早く着いてあるご高齢の方と2人だけになりました。90歳以上のご高齢にも拘らず遠い所から杖をついて1人でいらっしゃいます。そして若い時からの苦労話をして下さいました。今も悩みはおありです。でも彼女にとったらお祈りだけが支えとなって生きてこられて、今もお祈りだけが喜び、生きがいで、遠くても喜びに満ちて輝いた顔でいらっしゃり、私も励まされます。  澄玲

今週の福音

9 () ヨハネ 213 -22

10 () ル カ 17・1- 6

11 () ル カ 177 -10

12 () ル カ 1711 -19

13 () ル カ 1720 -26

14 () ル カ 1726 -37

15 () ル カ 181 – 8

16 () マタイ 2514 -30

アンブロージョ典礼一主日と祝日のミサ (第三)

アンブロージョ典礼においては、主日(日曜日)は、クリスマスを除いて、他の祝日より優先する事になっています。従って、もし8月15日が日曜日に当たれば、聖母の被昇天祭のミサではなく、その日曜日のミサが挙げられます。これは、一年間の日曜日毎に展開される救いの主要な教義は、一つも抜かず連続的に祝われ、それによってキリストと出会う一環とした道行きが、全ての信者に呈される為です。

アンブロージョ典礼は「主の日」の祝い方に、特別な意を注いでいます。先ず、主日は土曜日の日没より始まり、それ以降に挙げられるミサなどの典礼は、ただあくる日曜日の前夜祭としてではなく、すでに主日のミサです。だから、ただ日曜日にミサに出られない信者に対する「手当て」としてではなく、その「主日の初穂」として各教会に勧められます。又、この初穂のミサの序文としては、主の復活の福音が宣言され、その後、聖歌で讃えたり御香を焚いたりする事になっています。いわば、主日はまさに「主の死と復活」を記念して、その神秘を自分の生活の中に染み通らす「主の日」です。復活の福音の宣言は常例のミサ開祭と改心の式の替わりになり、その直後に言葉の典礼に進むのです。

今日(116日)大司教からミラノ日本人カトリック教会宛てにも手紙が届き、その内容はこれからのミサ挙式についての指示です。外国からミラノに移って居住する信者も、ミラノに生まれた信者と一緒に、同じアンブロージョ典礼に従って日曜日のミサを捧げる様にという司教様の命です。外地で色々な事を覚える様に、生誕地を問わず、幅広く学んで、一斉に唯一の主を称えましょう。(ルチアーノ神父)

ローマの日本人会のこらっじおじ(200811月号(第228号)より

濱尾枢機卿様ご帰天から一年

昨 年11月8日に享年77歳で濱尾枢機卿様が帰天されて一年になります。枢機卿様は長年日本人会を心にかけてくださって、お忙しい中でも日本人会のミサに毎 月のようにいらしてくださいました。そこで今回の日本人会のミサの中で特別に枢機卿様のご冥福を祈りたいと思います。枢機卿様が天国で神の御許で安らかに すごせるように皆様もご一緒にお祈りください。

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