ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

2008年8月17日 ・ 年間第二十主日

福音 マタイ 1521-28

イエスは、そこをたちティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

福音を顧みて

今日の福音に出てくるイエスの行動は、普段私達がイエスについて抱いている思いに適用できない、不思議な物です。まさか、イスラエル人でないだけで、娘の回復を懇ろに願って「主よ、ダヴィデの子よ、憐れんで下さい、私の娘が悪霊に大そう苦しめられているのです」と叫ぶカナンの女に対して、一言も答えないイエスの態度とは!女が叫び続けてうるさいから、どうにかなさるようにと弟子たちに頼まれた時だけ、口を開いて「私はイスラエルの家の、迷った羊の為に来ただけだ」とか、「子供のパンを取って子犬にやるのは、良くない事だ」とかと答え乍ら、再び助けをお断りになったイエスの姿とは。イスラエル人でない女の子を「子犬」と呼ぶ事も、果たしてイエスの口から出たと思える表現でしょうか。ここに言われる「子犬」とは、決して今日可愛がれる様になったペットのイメージではなく、むしろより低い位の者を指しています。

マルコ福音(714-20)にも記されたこの1頁を論じながら、神学者は違う解釈に分けられ、片方はイエスがカナンの女の信仰を浮き彫りにする為に、わざとああいうきつい口調で反応されたと説き、他方は前者の考えを方便だと退け、イエスがカナンの女の願いに応じなかった理由は、イスラエル文化の真の子であって、全てのイスラエル人が思い込む通りに行動されていたからと解釈します。現在の教会には前者と後者の両解説が共に内在していて、それなりに信者の心を支えていますが、同時にイエスに対する信じ方と接し方、更にイエスの名によって世の中に対する見方は、聖霊の導きのお陰で多様であり得る事を示しています。

さて、イエスに対する尊敬を傷つけるように聞こえるこの「文字通りの解説」を受ける後者の思慮を調べるのは、信仰上非常に意義深いと思います。前者はイエスが天からこの世に降りて下さった神の御子である事を前提として福音を読むならば、後者はイエスが地上から天の神性に昇られた「人の子」である観点から主と出会うのです。それこそ、他ならぬ弟子達が主を認める迄、廻り回った道です。ペテロがエルサレムの群衆にイエスの事を始めて宣教した時、「神は、あなた達が木にかけて殺したイエスを頭とし、救い主としてあげられました。私達は、この事の証人です」と述べましたが、ペテロの言葉もよく地上から「あげられた」イエスのアイデンティティを指しています(使徒行録530-32)。ヘブライ書に次の証言が記してあります。「キリストは、自らの試練を受けて苦しまれたので、試練の中にいる者を助けることがお出来になる」(へブライ人への手紙217-18)。

上記のヘブライ書の二節がはっきりと示す様に、イエスは試練の中にいる私達を理解し、助ける事がお出来になるのは、御自分も試練の中を歩いんで、キリストとして成長されたからです。イスラエルの文化の限界の一つであった「優越感」を乗り越えるために、カナンの女との出会いはイエスにとって決定的でした。ルカ福音書には、二度程繰り返して「幼子はたくましく育ち知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」「イエスは、知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」(ルカ240; 52 )と書いてあります。キリストになられる為に、次第に成長されたこの「人の子」は、カナンの地を廻った際、異邦の女、いわば未信者の女から、世界の子供達が皆可愛い天使である事を教えられたのです。全世界の歴史はキリストを育てる試練の場です。このイエスこそ、身近に感じられる救いの友です。

「わたしたちも数は多いがキリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」(ローマの信徒への手紙125)とパウロが証かしてくれるように、私たちの生活、いわば毎日の探求や悩み、喜びや訓練等において「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造りあげてゆき、」(エフェソの信徒への手紙412)の現場です。聖母マリアと共に、未信者のカナンの女も、この世にキリストを生んでくれました。そして、子供の幸せを祈り続けるすべての母親も。私なりに、私も!信じるとは、どんなに現実的で、切実なことか!

分かち合い

聖母マリア様は主イエス・キリスト様が天に昇られた後、しばらく12使徒達と一緒に地上で生活されましたが、やがて聖霊の力によって天に引き上げられたと言われています。この被昇天の聖母マリア様にお祈りを捧げましょう。

恵み深き聖母マリア、貴女は聖寵に満たされて、受肉の神秘のお恵みを受け、私達にお取次ぎをして下さいました。いつまでもお守り下さい。

アーメン

ある年、ある酷暑の日、ある神父様がお説教で、「今日は本当に暑いですね。地獄はもっと暑いので皆さん行かないように気をつけて下さい。」とおっしゃっただけでお説教が終わりました。日本では夏には納涼、お化け~等暑さ凌ぎに言われますが、案外大笑いする事でも凌げます。一瞬でも気を取られるからでしょう。そしてもう1つ真の方法があります。涼しい内に少し早く起きて、座ってみます、背筋を真っ直ぐにして。自分を座禅に投じて全てを捨て去れば、神様と一致する事が出来ます。イエス様も朝早く起きて1人静かにお祈りする事から1日が始まったのではないでしょうか。 澄玲

今週の福音

17 日 マタイ1521-28

18 月 マタイ1916-22

19 火 マタイ1923-30

20 水 マタイ201-16

21 木 マタイ221-14

22 金 マタイ2234-40

23 土 マタイ231-12

24 日 マタイ1613-20

今日の「福音を顧みて」には、イスラエル文化の真の子であったイエスが、聖霊に

導かれてキリストに成長されたと申しましたが、やはりキリスト教は人間の文化と神

の恵みを編み合わせ、天と地を結ぶ「十字架」の道です。十字架は、縦の棒と横の棒を

組み合わせた愛の象徴です。こうして、教会の行事である聖母の被昇天祭も、伝来の

習慣である御盆も、どちらも生死の神秘を詠む「夏の風物詩」。。。

夏の風物詩

日本の夏の風物詩として七夕、花火大会、灯篭流し等があります。七夕には、マンンションのロビーに笹の木が置いてあって、皆、願い事を書きます。宝塚観光花火大会は大正時代から続いて、今年は手塚治虫生誕80周年を記念して2日間で4千発の花火が夜空を飾りました。我が家は武庫川に面した所に建っていて、花火大会の時は、母が居る時には娘と3人で河原に降りて見に行っていましたが、今は親戚の人を呼んで夕食を一緒にして河原に降りて行きます。河原でバーベキューをして居る人達もいます。河原はとても涼しく蚊も来なくて、敷物を持って行って、河原でユックリと夕涼みが出来ます。8月6日、9日の原爆記念日に続いて15日の「終戦記念日」、「聖母の被昇天」、そして仏教ではこの周辺にお盆があります。神様は唯一の存在でいらっしゃいますが、その国によって色んな伝統、風俗、習慣が違うという事で、お供養の仕方も夫々の国にあったやり方が受け継がれて来たのでしょう。先祖の霊が子孫の家に帰って来る様にお迎えの準備をします。灯篭流しが武庫川の上流で行われて、灯篭の中にローソクを入れて自分の願い事を書きます。私の父は仏教徒として亡くなり、母は先祖のお墓をどう守って行くかという事に解決がついてから受洗しました。生前には父の為にお供養をしていました。私も仏教徒であった私の祖先の為にお供養をします。両親の戒名を両端に書いて真ん中に「世界平和が訪れます様に」と書きました。そして川に流してあの世に送ります。涼風が漂っている河原で、周りの光を反映した真っ黒な川に300余りもの灯篭がユラユラ揺れ動く様を見ていると、何ともいえなくロマンチックで情緒満点で、それをジーット見ていると魂が宿っている感じがします。神戸新聞の人にコメントを聞かれました。「来年ルチアーノ神父様がイタリア人の巡礼者達を日本に連れていらっしゃる時に日があえば、この日本情緒満点を座禅のお仲間に見せてあげたいと思いますと」答えました。教会であるコースに通っていた時、私が「融和を求めている」と言ったらガイドの人から「神様がそれをお求めなのよ」と云われました。イタリアでは年間の暦が典礼に添っているので、8月15日は祭日で朝、御ミサに行って、お墓参りもして、昼食は親戚が集まって一緒にお祝いをします。私が日本で通っている宝塚教会は「被昇天の聖母」に捧げられていますが、日本では祭日ではないので、夕方7時に御ミサがあってその後パーティーをして喜びを分かち合います。大掃除も皆一緒に前以ってやりました。今年は私の地区がお当番に当たっていて、又私はロザリオの係りもしているので買い出し、用意、後片付け等を係りの人達と一緒に、全て分かち合いで楽しくやります。そして教会の音楽の係りの人が作曲してくれた「被昇天の聖母」を最後に歌います。

古谷野玲子   

ミラノ日本人カトリック教会

毎週の行事一覧

2008年9月14日から20096月末まで)

水曜日

  • 18.3020.00 黙想〔座禅〕・ミサ (司祭館Via Pattari 6)

木曜日

  • 7.008.00 黙想〔座禅〕・朝の祈り (司祭館Via Pattari 6)

  • 9.0012.00 司祭団研修会 (司教館)

  • 16.0019.00 ご来訪をお受けします (教会堂P.zza Duomo 18)

  • 19.15 ミサ

  • 20.0021.00 聖書研究会 〔日本語〕 (司祭館Via Pattari 6)

金曜日

  • 7.0010.00 許しの秘跡(告解) ドゥオーモ(中央祭壇の左側)

  • 12.0015.00

  • 18.3019.30 次の日曜日のミサに準じて

聖書朗読を共に熟読・塾慮する研修会 (教会堂P.zza Duomo 18)

日曜日

  • 9.0010.00 ミサ (イタリア語)) Muzzano

  • 11.00 準備; 11.30 主日のミサ(日本語) (教会堂P.zza Duomo 18)

  • 午後、依頼に応じて家庭訪問

尚、月・火・水(午後まで)・土の曜日にはルチアーノ神父がDesioに居ます。

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