ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi 神父)
2009年1月18日-公現節第二日曜日
福音 ヨハネ2・1-11
カナでの婚礼 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスもその弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし、三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召使たちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すのですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた。
福音を顧みて
ヨハネによる福音書の冒頭にはカナでの婚礼の話しが記されています。なるほど、ヨハネにとってはキリストの福音を理解するために大事な話しだと思われたからです。聖書の中に婚礼のイメージは何度も出ますが、キリスト教の極地、すなわち天国を指していると言えます。「神の国は、ある王は王子のために婚宴を催したのに似ている」(マタイ22・2)というのは、受難の直前に主が仰った例え話です。王子とはいうまでもなく神性と人性が結び合うキリストのことです。天は男性で、地は母性で、その結び合いは生命です。私たちの生命は天地の婚礼と言っても良いでしょう。愛の宴会でしょう。ところが、宴会が進む途中、葡萄酒が足りなくなることがあり、生命の勢力がしぼむことがあります。
「葡萄酒がなくなりました」と気付いて心配を持ち出してくださるのは「母」マリアです。その心配事をイエスに打ち明けて、どうかなさるように取り次いだら、息子イエスの答えは冷たい。「婦人よ、私とどんな関わりがあるのです」と。すると、マリアは給仕に水瓶を一杯にして、イエスの前に運ぶ手配をされます。神の子である「王子」は、地上の母から優しさを教わりました。「キリストは神の御子であるにも拘らず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者と成られたので、・・・永遠の救いの源と成り・・・」(ヘブライア人人への手紙5・8-9)と聖書が証すように、地上の体験は神の子を完全な姿に育みました。こうして、正にキリストは天の父の力と、地上の母の優しさと、どちらの筋も引く天地の「王子」です。
イエスは母マリアに従って、瓶の水を芳しい葡萄酒に変え、婚礼の祝いを満たしてくださいました。この出来事に深い意義が潜在していると思います。すなわち、人類の救いのためにキリスト教が提供する独特な貢献のことです。キリスト教界の外にも道徳が守られ、愛の業が無数に働かれています。しかし、必ず何時かの間に「葡萄酒」が意味する気力が足りなくなることがあります。断念して、天を恨んだり、地をのろったりすることまでありえます。キリストは、自分の限界にぶつかって失望しがちな人間を迎えて、より深い意義の喜びに復活させてくださいます。冷たい水をより美味い葡萄酒に替えてくださいます。キリスト教は復活の恵みの宗教です。却って、恵まれすぎて一つも迷わなかった「99人の義人」は、復活を要しないために、喜びを覚えることももたらすことも出来ない訳です(ルカ15・7)。
私達は許し合うときに、そのより美味い葡萄酒を味わいます。こうして、宴会が続きます。天の子に優しさを育んだ聖母のお陰で・・・聖母マリアは、みんなのために執り成している教会の前兆です。
分かち合い
私は去年のクリスマスイヴの晩、真っ白な顔で目の回りだけが仄かな薔薇色に包まれた赤ちゃんの夢を見ました。そして25日にジャコメッリ家に元気な可愛い男の赤ちゃんが誕生しました。名前は両方の曽祖父から貰ってマリオ・勝ちゃんと名付けられました。私に孫が出来るのはまだ先の事だと思っていましたが、人並みにおばあちゃまになる事が出来ました。神様がお与え下さったお恵みに感謝します。澄玲
追加:「お祖母さんになった玲子さんにも、また御主人にも、「おめでとう!」(ルチアーノ神父)
今週の福音
18 (日) ヨハネ 2・1-11
19 (月)マルコ3・7-12
20 (火) マルコ3・22-30
21 (水) マルコ3・31-35
22 (木) マルコ4・ 1-20
23 (金) マルコ4・21-23
24 (土) マルコ4・24-26
25 (日) ル カ2・41-52
お知らせ
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1月12日に梶村寛さんの姑Zoriade様が85歳で天に召されました。神のもとに「安らかに憩わんこと」を祈ります。梶村ご夫妻にお悔やみを申し上げます。
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1月24日(アンブロジオ典礼には聖家族の日曜日)日本に引き上げられる中山御家族と共にお別れの御ミサ。ミサに続いて名残の茶話会。「。。。また会う日まで、神とともに。。。」。梨利花ちゃん、幹土君、頑張ってね。。。
先日、バチカン駐在の日本大使からミラノ日本人カトリック教会宛て以下の文章が届いたので、皆さんに回送します。ベネヂクト16世教皇が大使団に宛てられたメッセージの概要です。上野大使のご厚意に感謝を述べて。。。(ルチアーノ神父)
各位
新年あけましておめでとうございます。
先般名刺を交換させて頂いたバチカンの上野です。
ところで、バチカンにいる大使にとり、法王が年頭に行う「国際問題に関する年頭演説」を聞くことは、最重要行事のひとつです。本年も、この1月8日に法王が全外交団をバチカン宮殿に招致の上、これまた例年通りフランス語で約30分演説行しました。法王は、約40に及ぶ国際問題(ガザ紛争、イラクなどの地域問題、平和、貧困、人権などのテーマ別問題の双方を含む)につき所見を開陳しましたが、特に印象深い3点につきお話しします。
第1点は、ガザ紛争について、「国際社会の黄門様(!)」として、関係当事者に武闘停止を強く求めたことです。かなり熱がこもっているとの印象でした。国際社会に、「やるべきことがまだあるのではないの」と叫んでいるようにも感ぜられました。
第2点は、市場主義の行き過ぎに関連して、モラリズムなき経済運営では駄目だとの明確な指摘があったことです。この点については、法王は近時何回か発言していますが。
第3点は、日本につき、より具体的には、昨年11月に長崎で行われた188人の列福式について、言及があった点です。実は、日本につき言及があるのは珍しいことでして、発言があったこと自体特記事項と言えます。右言及は、アジアについての諸発言の一環としてあったもので、「アジアでは、カトリック信者の数こそ少ないが、(かれらは)国全体の幸福、安定、進歩のために貢献しており、・・・神の言葉を忠実に守っている・・・・日本の列福式はこのことを雄弁に物語っている」というものでした。そこで、演説終了後、各大使より個別に挨拶した際、私より「日本の関係者は式典の成功を大変喜んでいました。」とお話ししたところ、法王より「自分も喜んでいる」とのお答えがありました。総じて言えることは、世界を見渡せば見渡すほど、法王の悩みは尽きない(第3点は別として)と言うことです。遺憾なことですが。
さて、小職はこの2年余、数ヶ月に1回「バチカン便り」なるものを各方面の方々にお送りして来ておりますところ、今後貴職にも送付申し上げたく、その際はご笑覧下さい。また、別便で昨年11月に送付済みの「バチカン便り⑩」を、当時の文面のまま(従ってアウト・オブ・デートな部分がありますが)送付しますので、お受け取り下さい。
末筆ながら、本年におけるご多幸、ご健勝を心より祈念申し上げます。
上野景文(バチカン、2009.1.12.)
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