ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

2102008年-主の公現 

福音 マタイ 4, 1-11

そのとき、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「人はパンだけで生きるものではない。神の0口から出る一つ一つの言葉で生きる」とかいてある。」次に悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が打ちあたることのないように、天使たちは手であなたを支える」と書いてある。」イエスは、「あなたの神である主を試してはならない」とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄振りを見せて、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを皆与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に使えよ」と書いてある。そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに使えた。

福音を顧みて

主の祈りは七つの意向を含んでいるが、その第六は「私たちを誘惑に陥らせず」という願いです。誘惑と会わせないようにではなく、それに陥れさせないことだけを祈るのです。結局、誘惑との戦いは人生の旅を導く聖霊の働きの一つです。聖霊の賜物の中では真実と節制が優れていることを、パウロが証明しています(ガラテヤ書5,22)。「これはわたしの愛する子、私の心に適う者」という声が洗礼を受けるイエスの心に天から響いたとたん、イエスは福音の啓示を開く時が到着したとはっきりと自覚され、その意志を強めるために、聖霊によって荒れ野に導かれたのです。荒れ野には、いざなうものが待ち構えていました。誘惑と出会わないために生ぬるく生きることは、如何にキリストの福音と遠いことか!荒れ野には、避難する場所はなく、内的な力に支えられて自立するほかありません。誘惑に耐えて打ち勝つ内的な力とは自分に内在する聖霊です。表面に溜まる汚水は病気の伝染のもとだが、深く掘って湧き出る地下水は健康の泉です。荒れ野で、地下水まで掘ることは、どれ程の試練でしょう。だが、その荒れ野とは、私自身のことだと悟れば、聖霊に導かれて荒れ野に進んで行きます。私たちの心に溜まりがちな雑念から清められるためには、愛着の安定を揺すぶる誘惑と出会うことも聖霊の導きの一つです。

悪魔はイエスを誘うために、神に対する冒涜を吐くどころか、聖書の尊い言葉を引用するばかりです。神を否定する誘惑は浅くて、効果率が薄いかもしれません。かえって、宗教自体を利用しての誘惑は確かに危ないです。大概、悪魔が人の信仰を惑わせて、それを猛信的なものへと燃やそうとするので、イエスにも「神の子なら。。。」と誘っています。言い換えれば、目に見えない神を自分の水準に当たる御利益主義に下げるか、または自己を絶対的なものに上げるかの、どちらかです。幸い、キリストの福音の開始はイエス自身が霊によって誘惑の荒れ野に導かれた体験から始まるのです。私も荒れ野での離脱を通らなければ、。。。しかし、本物の離脱とは、四旬節に私が自由に捧げる小さな犠牲だけではなく、思いがけないところから、思いがけないように襲って来る試練です。それこそ、真の改心へと聖霊が私たちを導いてくださる、まことの荒れ野です。

福音の響き

、改心の時期である四旬節が、灰の儀式をもって始まるのです。灰は燃焼の後に残る滓(かす)として、破壊の象徴であるが、また再出発の兆しでもあります。第二次世界大戦末期の原爆投下もそうです。其れを目撃した長崎の西田さんが次の文章を送ってくださったので、皆さんに回送いたします。           ルチアノ神父

原爆雲の下を生きて

今後数回にわたって私の長崎での原子爆弾の被爆の記録をお送りします。
日本は、私が小学校(その頃は国民学校と言われていました)六年生の時の昭和十六年(1941年)十二月八日に、アメリカやイギリス等の世界の大国を相手に太平洋戦争(第二次世界大戦)に突入しました。緒戦の真珠湾攻撃やマレー半島方面での華々しい戦果に日本国民は大喜びをしましたが、半年を過ぎると資源のない日本は補給が続かず窮地に追い込まれ、各地で撤退や玉砕が続き敗色が濃厚となってきました。さらに国内では主な都市はしばしば爆撃に曝されて焦土と化し、壊滅的な打撃を受けました。当然日常生活は窮乏し、生活必需物資は殆ど配給制となり人々の生活は苦しくなってきました。国は「欲しがりません勝つまでは」の標語を掲げて国民に耐乏生活を強制しました。各家庭からは貴金属の供出、お寺や教会からは鐘等が兵器増産の為にと取り去られました。街ではバケツによる消火訓練や竹槍の訓練、防空壕堀りが日常的で、今思えば全く無謀と思える作業の毎日でした。

中学に入ると級友の殆どが非キリスト教徒であり、私達キリスト教徒は常に白い目で見られ、「アーメン・ソーメン・冷やソーメン」等とからかわれ、とても嫌な思いをしたものです。また軍隊からは配属将校が見え教練という教科が重要視され、軍人になる為の教育が優先的に行われていました。さらに戦局が厳しくなると、私達中学生にも軍隊への志願が半強制的に行われ、応募しない者は非国民の様に言われました。そのため級友の中の相当数が応募し軍の機関に入隊して行きました。幸い私は長男である事と肋膜炎の既往症の為強制から免れました。昭和18・19年になると学徒動員令が発令され、多くの大学・高専生達が特攻隊の要員として強制的に死の戦場に狩り出され、あたら若い有能な命を散らしました。私達中学生は、男子は報国隊・女子は挺身隊の名で、学業を中止し各地の軍需工場に徴収されました。私は中学3年の時、長崎市の北部の浦上にあった三菱兵器製作所に配属になりました。そこは太平洋戦争の初めの真珠湾やマレー半島等で使われたと言う空中魚雷を生産していました。開戦の日の毎月8日は「大詔奉戴日」とされ、朝礼で社歌を斉唱していました。私は工場で魚雷のスクリューを作る仕事をしていました。鋳型に使う砂の埃と1300度に溶けた鋼鉄を鋳型に流し込む作業はとても大変な物でした。ここでは多くの学生・生徒達が働いていました。毎日残業が多く辛い日々でしたが、残業時に出る一片のパンだけは食料不足時代、育ち盛りの私達にはとても有り難い唯一の楽しみでした。動員生活の最初の頃は週1回の登校日があり、学校に戻った私達は勉強の事、仕事の事、国の将来等について熱く語り合いましたが、戦局が厳しくなるにつれそれも無くなり、代わりに学校から先生が見えて学内の状況報告や生活指導がなされました。戦争が終わる1週間前の194589日は私にとっては生涯忘れられない痛恨の日です。この日長崎は米軍機による原子爆弾の攻撃を受け、特に中心地となった浦上地帯は壊滅的な被害を蒙りました。当日の朝たまたま学校から指導に見えた工藤先生から、3日前の8月6日広島に新型の爆弾が投下され相当の被害があった事を知らされましたが、長崎にも同じ物が投下されたのです。米軍の当初の目標は小倉(現在の北九州市)でしたが、天候の加減で投下できず、帰途、次の目標であった長崎がたまたま晴れていた為投下したとの事です。午前112分、一瞬の閃光と物凄い風圧が襲い、鉄骨構造の大きな工場は瞬時に崩壊し私はその下敷きになり負傷しました。周囲は真っ暗になり天井からは色んな物が落下してきました。世界の終わりが来たのかと思いました。しばらくすると少しずつ明るさが戻ってきました。私は落下物をかき分けて工場の外へと這い出しました。周囲は全て廃墟と化していました。この爆弾は浦上の中心地の松山町の上空500メートルで炸裂し、その強烈な熱線と爆風・放射能により一瞬にして浦上を中心とした市全体に大きな被害をもたらしました。そしてこの日私は6人の家族(母~被縛20日後死亡・弟3名・妹2人~焼死)、多くの親戚・友人・知人を失いました。たった一発の爆弾でこんなにも世の中が変わった事に強い悲しみと憤りを覚えます。かかる惨事が今後起こらない事を心より願う者です。「長崎市政65年史」によると当時の市総人口は24万人、被害状況は死者73884人、負傷者7万4千909人、罹災戸数は総戸数の38%と記されています。なおその時に生き延びても多くの人が、放射能の障害により死亡したり後遺症の苦しみに曝されたと言われています。全身に傷を負った私は必死で山の防空壕の方へ逃げ、疲れ果てて数時間をそこで過ごしていました。

西田

今週の毎日の福音

  10 マタイ 4,1-11

11 マタイ 25, 31-46

12 マたイ 6,7-15

13 ルカ  11,29-32

14 マたい 7,7,12

15 マたい 5, 20-26

16 マたい 5,43-48

17日 マタイ 17, 1-9

ほのぼの雑記

「あなたはちりであり、ちりに帰っていくのです」「回心して福音を信じなさい」

いよいよ四旬節に入りました。四旬節が単なる断食、節制だったら、それはパリサイ派の行いになってしまいますね。 灰の冷たさ。洗礼を受けた時の燃えていた信仰が灰のように冷たくなってはいないでしょうか。イエス・キリストについて聞いていた、本を読んだなど、イエス「について」知っているのではありませんか。イエスキリストとの実存的出会い、イエス「を」知った時、私たちはヨブのように打ちのめされ恐れおののくでしょう。自分の無力さ、無価値さ、塵にすぎないことを知って・・・

四旬節を迎えたわたしたちが、この恵みの時を大切にし、日々新たにあなたに向かって歩んでいくことができますように。

荻原智子

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