ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

322008年-四旬節第4日曜日 

福音 ヨハネ 91-41

以下は四旬節第四日曜日に読まれる福音の一箇所です(9, 34-41

彼ら(ファリサイ派の人々)は、「お前(生まれつきの盲人)全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼は「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた。イエスは言われた。「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見えるものは見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、{我々も見えないということか}と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、「みえる」と穴たちは言っている。だから、あなたちの罪は残る。」

福音を顧みて

先週の日曜日のミサには渇きをいやす水、今日のミサには盲目を照らす光線の例えを通して、主が私たちに改心の方向を示してくださいます。先週は水を汲みに行くサマリアの女、今日は生まれながらの盲人が主と出会うことによって、今までの災いから立ち上がって、私たちにも福音を明かす役者となったのです。福音の主役を成し遂げてくれたのは、他ならぬ災いの闇から改心した人々です。そうです!渇きを覚えることがなければ、癒される恵みもないでしょうし、暗闇を体験しなければ照らされる喜びも知らないでしょう。いわば、四旬節に改心の道を歩む私たちも、主と共に復活の体験者と証人となり、福音の役者を務めるのです。

人の盲目が開かれる今日の福音を吟味するためには、先ず私たちの一人一人が今までさ迷った暗い体験を思い出してみましょう。結局、福音の盲人が他ならぬこの私です。人間関係が真っ暗になって心が憎しみを孕んだあのとき、または自分の無能さに対して挫折を覚えたあのとき。。。最近の新聞によれば、2006年において日本での自殺件数は32.115! イタリアになれば、毎日のように殺人・窃盗事件!と言っても、日本は、文字通り日の出を浴びる列島として明るく、イタリアは陽気な国民と知られ、観光者が憧れる半島です。天然的にも、精神的にも闇と光が切り離されず、かえって相対して、初めて生命の多様性が現れるのです。主が闇を取り除き、光だけの世界を作るためではなく、闇に光を対象させて、有りのままの私たちを愛の範囲に導びくために来られたのです。こうして、「神を愛する者たちには。。。万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています」(ローマ書8,28)。

ファリサイ派の人々は、イエスの行動が示す福音を認めることが出来ませんでした。暗記していた聖書自体、彼らの口には狭い視野に閉じこもる理屈に変わってしまいました。「神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない」と論じ合う彼らは、イエスを通してモーセを超えた光が輝くことを信じ切れませんでした。いわば、神の働きは自分の宗教的な知識と視野より広くて深いと見なす素直な心をなくしていたためです。彼らと同じように、誰も、私たちも、神を自分のしきたりに限るものにしてしまい、日ごとに改心していく真の姿勢をなくすことがあります。神を知り尽くしたと自惚れたときこそ、再び暗闇に陥った段階です。しいて、振る舞いは偽善的になり、自分を庇うために暴力的になるのです。不思議ですが、自分が闇を徹底的に除き、真光を悟ったと思う人が、闇と対象し続けるお陰で愛の多様性を知らず、キリストの喜び合う心を授かることも出来ません。情け深くない光線は、まばゆいために目を塞ぐのです。「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見えるものは見えないようになる。」

今週の毎日の福音

02日 ヨハネ 09, 01-41

03 ヨハネ  04, 43-54

04 ヨハネ 05, 1-16

05 ヨハネ 05, 17-30

06 ヨハネ  05, 31-47

07 ヨハネ 07, 25-30

08 ヨハネ  7, 40-53

09日 ヨハネ 11, 01-45

お知らせ

洗礼への道行きを求道者と共に

Cappellania の教会堂 (Piazza Duomo)

  • 四旬節第345日曜日の各ミサ(11,30)に開放・祝福の祈りが唱えられる。       

 上記の日曜日は32日、9日、16日です。なお、16日は枝の主日です。

  • 聖木曜日〔320日午後7.309.00〕最後の晩餐の記念(洗足式、黙想、聖餐)

  • 聖金曜日断食の日(321日午後7.309.00) 十字架の記念、道行き

  • 聖土曜日〔322日〕受洗前日:隠遁の日

  • 復活祭 (323日午前11.30)洗礼ミサ

  • 復活節の第一日曜日(330日)喜びの巡礼の予定日

  • 聖霊降臨祭(511日)に備えて初許しの秘跡

以下はベネヂクト十六世教皇の四旬節メッセージより第三・四章です。続く

3.  福音書は、キリスト者の施しの典型的な特徴を照らし出しています。すなわち、それは隠れて行われなければならない、ということです。「右の手のすること を左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。」(マタイ634)とイエスは断言されています。その少し前では、自らの 善行を誇ってはならない、さもないと天の父のもとで報いをいただけないことになると述べられました(マタイ612参照)。キリストの弟子は、神のより 大いなる栄光に関心を払うべきです。イエスはいいます。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、 あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ516)。従って、すべてが、自分自身のためではなく、神の栄光のためになされなければな りません。兄弟姉妹の皆さん、このような理解が隣人を助けるあらゆる行為に伴わなければなりません。それらの行為は、自分を注目の的とするための手段では ないのです。もし、善行を成し遂げながら、その目的が神の栄光や兄弟姉妹の真の幸せではなく、個人的利益の見返りや単なる称賛を求めているものであるとす れば、福音的な考え方から自らを引き離してしまうことになります。今日のように映像があふれている世の中ではこうした誘惑が多いので、よく用心する必要が あります。福音によると、施しは単なる慈善ではありません。それはむしろ、わたしたちに自分のすべてを与え、十字架上で亡くなられたイエス・キリストに従 う愛の具体的表現であり、神の愛と隣人愛に向けた内的回心を必要とする対神徳です。この精神のもとに、ひっそりと、メディアの目を逃れ、困窮した隣人を助 けるために惜しみなく与えることを実行している多くの人々に対して、神に感謝せずにいられるでしょうか。たとえ自分の所有物を他の人々に与えても、それで 虚栄心を満たすことになれば、ほとんど役に立ちません。それゆえ、「隠れたことを見ておられる」神がひそかに報いてくださることを知っている人は、慈悲の わざに対して人間的な評価を求めないのです。

4.  単なる物質的次元を超えた、より奥深い観点から施しを考えてみましょう。聖書は、受けるよりは与える方が幸いであると教えています(使徒言行録2035参照)。愛に促されて何かを行うとき、わたしたちは本来あるべき姿を表します。わたしたちはまさに、自分自身のために造られたのではなく、神と兄弟姉 妹のために造られました(二コリント515参照)。神の愛のために、助けを必要としている隣人と自分の物を分かち合う度ごとに、わたしたちは、愛によっ ていのちが完成すること、そしてすべてが、平和、心からの充足感、喜びという形で祝福として自らに帰ってくることに気づきます。天におられるわたしたちの 父は、わたしたちの施しをご自分の喜びで報いてくださいます。さらに、聖ペトロは、施しの霊的実りの中に罪のゆるしを含めました。「愛は多くの罪を覆うか らです」(一ペトロ48)。四旬節の典礼の中で繰り返し述べられているように、神は罪びとであるわたしたちに、ゆるされる可能性を与えておられます。自 分の所有物を貧しい人々と分かち合うことにより、わたしたちはそのたまものを受けるようになるのです。今、私の脳裏には、犯した悪事の重大さがよく分かっ ていて、それがゆえに神から遠く離れ、怖くて、神と向き合うことなどできそうにないと感じている人々のことがよぎります。施しを通して他者に近づくことに よって、わたしたちは神に近づきます。施しは、神と兄弟との和解と真の回心のための手段となることができるのです

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