ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

2008105日 ・ 年間第二十七主日

福音 マタイ 2133-43

〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。
また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。

『家を建てる者の捨てた石、

これが隅の親石となった。

これは、主がなさったことで、

わたしたちの目には不思議に見える。』

だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。

福音を顧みて

「家を建てる者の退けた石、これが隅の親石となった。これは主の御言葉、私達の目には驚くべき事」。詩編11822-23節に当たるこの一句は、聖書に記されてから何百年経っても誰もその存在に目を向けず、莫大な糧に及ぶ旧約聖書の片隅に眠っていました。はじめてその深みを洞察し、人道の指図として浮き上らせて下さったのは、イエスと名乗るナザレ村の大工でした。パレスチナの地質は殆ど岩石の層によって成り、家作りの基本的な材料は石材であって、手当たり次第に散らばる石の中から格好良い物を正面の壁の為に取っておいてから、残りの不良品は礎の穴に投げ捨てるのは決まった段取りでした。こうして、格好悪い石で埋まった丈夫な礎が出来てその上に家が建てられると、通りかかる人々は「ご覧!立派な家だな」と美しい正面を称えたりしても、丈夫な基礎に注意を払う誰もいなかったのでしょう。やはり、人間の傾向は目に見える表面を鑑賞し、目に見えない深い物はないがしろにする、これです。それと逆に、大工のイエスは、家作りにかかる骨折りの作業に人生の真理を語る例えを見抜かれて、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさった事で、私達の目には不思議に見える」と、忘れられた旧約聖書の一句を脚光させて下さいました。では、例え話に沿って、人生の意義を穿鑿して行きましょう。

言うまでもなく、主人から葡萄園を預けられた農夫達は生命や多様の能力をただで与えられた人間の事を指しています。しかし、ただで授かった恵みを誇りだして本来の姿を忘れた農夫達は葡萄園の所有者振る舞いをし出してしまう事は、他ならぬ生まれた事自体ただで授かった賜物である事を忘れ、獲得し得た博士号や名声の故に、胸を張って支配権の高台に乗る私達を言っています。福音の農夫達とそっくりですね。そして、もし誰かが立ち入ったり、商売の運営に邪魔をしたりすれば、暴力を行使してでも、自分の支配権を予防するのは当然に思います。葡萄園の農夫達は派遣された僕たちも、わが息子も殴ったり殺したりしました。収穫を収める為に派遣された僕達は他人との横の関係を指すのであれば、わが息子とは心に内在なさるキリストを指し、信仰の歩みに拘ります。「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言って、主人は自分の息子を送った」。しかし、農夫達は跡取りの息子をより酷く扱いました。いわば、わが人生の永遠なる価値を消し、如何なる永遠なる目的から取り外して、肉眼に限る地平線の利益に身を投げます。

現在、貿易界においては、自分の所得を増やす為に、いかなるコマーシャルを使っても良いとされ、いわばいくらごまかせて他社がつぶれても、自社の売り上げさえ上がれば、それこそ上手い商売と見なされます。しかし、何時の間にか、神様からの勘定書きが届きます。人間は、もし自惚れてしまえば、優れた手腕を持っていても人間味としては卑劣なものです。

ただで授かった生命はただの心をもって一所懸命に尽くしたあげく、感謝しながら捧げ返しましょう。もし、「収穫を収めなさい」と言いかけてくる「僕」が重病であっても、素直に収め返す心を保ちましょう。大事な恵みである健康さえ心が執着してはならないからです。特に、最後の息を収めるように命じられるだろうあの瞬間、「有難う」と申しながら、永遠の安堵に参りましょう。

分かち合い

104日はアッシジの聖フランシスコ(1181-1226)の記念日です。裕福な織物商人の家庭に生まれましたが、全ての財産を放棄して福音を説く事を求めました。有名な「太陽の歌」Cantico delle creatureはイタリア人の子供達は良く口ずさんでいます。太陽・月・風・水・火・空気・大地を「兄弟姉妹」として主を賛美しました。小鳥へ向かって説教したという伝説も有名で、ミラノにもアンジェリクム教会の前にこの像があります。1972年にはフランコ・ゼッフィレッリ監督によって映画「ブラザー・サン、シスター・ムーン」が製作されこの主題歌も有名になりました。現在アッシジにある神学校はその昔は普通の文科系の高校で、近隣に住む男子学生が、寄宿舎の大部屋で寝泊りをして勉強をしていましたが、その後神学生達がシングルームに改造して現在は神学校となっています。聖フランシスコがこよなく愛した自然。このアッシジは、イタリア中部のウンブリア州にあり又フィレンツェのあるトスカーナ州のお隣に位置していて、イタリア内では緑の中心部とも呼ばれています。私も義父母が生存中にはイースター、クリスマス等のお休みにはノンビリと丘の上の家で過ごし、朝は鶏達の声で目を覚ましました。窓の外には自然以外何もなく、古典歌曲を歌っていると昔の音楽感がヒシヒシと迫ってくる感じがしました。大自然に恵まれた空気の良い田舎道を1時間位ドライヴをして、イースター前にはいつも皆でアッシジ迄告解をしに行きました。

11月24日のペトロ岐部と187殉教者の列福式を前に、司教団は10月5日から「列福をひかえ、ともに祈る7週間」としました。本を読んだりお祈りをしてその日を待ち望み心の準備を致しましょう。    澄玲

今週の福音

5 () マタイ 2133 -43

6 () ル カ 1025 -37

7 () ル カ 1038 -42

8 () ル カ 111 – 4

9 () ル カ 115 -13

10 () ル カ 915 -26

11 () ル カ 1127-28

12 () マタイ 221 -14または221-10

秋の渋い季節は心の落ち着きを恵んでくれます様に。さて、10月5日の日曜日は渋川美香里さんとパオロさんの長女、万里菜(まりな)ちゃんを抱いて 「初教会参り」をなさり、1130のミサ中に万里菜ちゃんの特 別な祝福式が行われます。多く集まって、ご両親の祈りと喜びに与りましょう。 ミサの直後、簡単な茶話会を開きますので、持参の一品でもありがたい。
次の10月12日の日曜日は、常例のミサを終わって、何人かの乗用車に乗り あって、遠足がてらDesioの「福音と禅」の家までのドライブを計画をしており ます。昼食を済ましてから、近所の美しい景色を楽しんで(コモ湖迄位)晩にミラノ着。遠足の連絡先は切ヶ久保たか子さんTel. 02.67067202
桜井まゆみさんTel. 339.7993509です。ご家族、イタリア人の友人達もお誘いの上、爽快な秋の1日をミラノ郊外で思いっきり良い空気を吸って、紅葉も楽しんで又親睦を兼ねて是非とも皆様お誘い合せの上でのお越しをお待ち致しております。持ち物:お弁当、飲物ecc.

1998年、日本の映画監督一団がペトロ岐部の生涯を取り上げる映画の計画をヨハネ・パウロ二世に紹介したいと申し込んだ時、日伊の通訳が私に頼まれまし た。教皇様もペトロ岐部の素晴らしい証しをお聞きになると、感動されました。 言うまでもなく、監督方の間にキリスト信者は一人もいなかったのですがが、ペトロ岐部の 模範が信仰を問わず誰にも魅力的です。私たちの弱い信仰が聖人の強い信仰に潤 されますように・・・ルチアーノ神父

17.ローマまで歩いた不屈の人 ペトロ岐部

ペトロ岐部が殉教した
江戸の伝馬町牢屋敷跡
(東京都中央区十思公園)

ペトロ岐部は「世界を歩いた神父」として知られている。確かにその生涯は旅であった。だが彼をその旅に駆り立てた力は、神と同胞に対する愛のほかにない。ペトロは司祭となって帰国し、迫害に苦しむ日本の教会のために自分を与え尽くすことを熱望した。
ペトロ岐部は、1587年、豊後の国 国東半島の岐部に生まれ、少年時代は有馬のセミナリオで育てられた。その時イエズス会に入会する私的な誓願を立てたという。後に同宿になったペトロは、 1614年、宣教師とともにマカオに追放された。だがそこでは彼の意に反し、司祭への道も閉ざされたと思われた。神と同胞に尽くしたいとの耐え難い望みに 駆られ、ペトロ岐部は、1618年ころ、マカオを出奔し、インドのゴアまで行った。そこから現在のパキスタン、イラン、イラク、ヨルダンなどを横断した。 ことばも風俗も知らず、砂漠の生活になれない者の一人旅は、生死をかけた決死行である。エルサレムに立ち寄って聖地巡礼をした後、彼がローマにたどり着い たのは、1620年であったと思われる。
ペトロ岐部は、ようやくの思いでローマのイエズス会の修練院を訪ねたが、非情にも、彼を受け入れないようにとの回状が、すでにマカオから届いていたことを知る由もなかった。
しかしペトロ岐部に会ったイエズス会の長上たちは、彼の司祭叙階に便宜を計った。1620年、司祭に叙階されてすぐ、イエズス会への入会が許された。リス ボンに移って誓願を立てたペトロは、帰国の途についた。交易船を利用して日本に上陸しようと考えたが、マカオ、アユタヤ、マニラとも、そのとき、すでに鎖 国の日本との貿易を打ち切っていた。それでもペトロ岐部は帰国を断念することなく、1630年、ついに薩摩の坊津に上陸することができた。リスボンを出帆 してから、8年の歳月が流れていた。
潜伏期の彼の心情をよく表す一つのエピソードが、マカオのコレジオの院長マヌエル・ディアスの手紙に記されている。1633年、中浦ジュリアンたちの殉教 の時、岐部神父は長崎の山中に潜伏していた。フェレイラが背教したと聞いて、夜中、山から下りて町に入り、フェレイラに会って次のように励ました。「神父 様、一緒に奉行所へ参りましょう。あなたは背教を取り消し、私とともに死にましょう」。フェレイラは断ったが、岐部の行動は、兄弟の救いを願う司祭の心情 をよく表している。その後、岐部神父は活動を東北地方に移し、そこで数年間、活動したが、もはや潜伏は困難であることを悟り、宿主に害が及ばぬよう仙台で 捕らえられることにした。
江戸に護送されて取り調べを受け、これには将軍家光が直々に立ち会ったこともあった。さまざまな拷問の末、取り調べ奉行井上筑後守の命により穴吊りにされ た。それでも信仰を捨てないペトロ岐部を見た役人は、真っ赤に焼けた鉄棒を彼の腹に押しつけ、絶命させた。ペトロ岐部の処刑について記した井上筑後守直筆 の所見が、今も残っている。
「キベヘイトロはコロび申さず候」

(カトリック中央協議会 列聖列福特別委員会

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