時涼しくなったものの又熱さがぶり返したり、ある地方では大雨の被害、他の地方では深刻な水不足とか、厳しさを感じますが、被害に遭われた方々へのお見舞いを申し上げます。

ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

2008年9月7日 ・ 年間第二十三主日

福音 マタイ 18・1-20

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕 兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

福音を顧みて

すべての宗教は人間に救いの道を教えようと心がけていますが、救いへ辿る為に各宗教が示す道は、異なった特徴性を持っていて、カリスマと言われています。俗語的な表現で言えば、各宗教の特有な味、香り、色合いと考えて良いです。今日の福音はキリスト教のカリスマをよく浮き彫りにしてくれます。また、キリスト教の諸教会の中でも、特にカトリック教会でキリストについて行く信仰の味、香り、色合いとして大事にされているものです。それは、キリストについて行く道は唯一の信仰による共同体的な繋がりです。昔の言葉で、「諸聖人の通功」と言い、すなわち誰も一人で救われる事が無く、支え合って、キリストの御言葉を理解し、共に十字架を背負い、互いに御国の到来の宴を祝うのです。パウロが書く様に、「私達の中には、誰一人自分の為に生きるのではなく・・・」互いの向上に努めるべきです」(ローマ書1415)を。

確かに、カトリック教会においては、人々同士の交わりがどれほど大切でありましょう。時には、他人を待つ為に、先に進むことを遅れてしまってでも。信仰の知識を極めるより先に、愛の心が大切です。カトリックとは「あまねく」というギリシャ語から来る語彙で、あまねく交わりながらキリストと共に信じて生きる事はカトリックの魂です。教皇や司教の制度を置く理由は、全ての時代や文化の人々の間に兄弟的な一致が守られる為です。

日本の初代の信者達は、福音書に言われる「アガペ」、すなわち「愛」を「互大切」(ゴタイセツ)と訳したそうです。互いのことは「大切」である故に、イエスは「兄弟があなたに対して罪をおかしたならば・・・」兄弟の所に行って「二人だけのところで忠告しなさい」と命じられます。この一行を熟読しましょう。悪かったのは他人であるが、主は「兄弟」と呼んでいらっしゃいます。向こうからお詫びに来るのを待つことは以ての外ですが、主は「行って二人だけのところで・・・」と仰います。ただ行くだけではなく、相手の面目をかばうために、「二人だけ」での親切さを忠告なさいます。

キリストの愛を「互大切」と解釈した昔の信者達は聖書の教えに従った上に、日本文化の感覚も「大切に」しました。現在、ミサの中で信者がキリストの体と血に与る儀式を「聖体拝領」と訳されています。イタリア語では「コムニオーネ」、英語では「コム二オン」、すなわち「一体」と言いますが、キリストと一体となることによって、自分も、敵を含む他人も、万物も、すべて一つになるという意味です。いわば、主の許しと愛による帰一の秘跡です。

1848年頃、当時のピウス9世教皇はかねてから優れた神学者であったロスミニ神父を自分の秘書として従えていましたが、妬みの為ロスミニに対する非難する神学者達が現れ、残念ながら教皇が彼らを聞いて秘書に退任を命じました。ロスミニ神父は従順を尽くして、老い先を隠遁所で静かに送りました。神学者である現在のベネディクト16世教皇がロスミニ神父の優れた人間性と深い神性を称える為に、福者の位に挙げられ、こうして、ピウス9世教皇もロスミニ神父も並んで教会の模範者として立てられた結果になりました。愛の絆は、神学的な対立より教会の基本です。「あなた方が、地上でつなぐことは、天でもつながれ、地上で解くことは、天でも解かれる。」鍵は愛です。

分かち合い

キリストの平和! 毎週の福音解説のあとの古谷野さんのお便りありがとうございます。禅堂のプレゼントよかったですね。すてきな建物ですね。おめでとうございます! 今週の聖霊セミナー関西大会の様子も分かち合って下さって感謝です。 3日前になって、顕示用ホスチアの依頼があって、あれは、特別サイズですから、わざわざ手で切り抜かなければなりません。係りのシスターがしてくれ、当日午後大会に行く人にことづけました。ですから、そんな形で大会に加われてうれしかったです。  シスター中村ジェンマ

今週の福音

7 日 マタイ1815-20

8 月 マタイ 11-16

9 火 ル カ 612-19

10 水 ル カ 620-26

11 木 ル カ 627-38

12 金 ル カ 639-42

13 土 ル カ 643-49

14 日 ヨハネ 313-17

ミラノ教会の一信者さんのコメントです。

笑顔にありがとう

今住んでいるミラノ郊外のサロンノという街に引っ越してきて5年が過ぎました。

駅の周りは賑やかですが、私の家はバスで更に15分ほどの場所で周りは公園や畑や緑が一杯の自然が残った静かな住宅街で大きな一軒家ばかりです。

この環境に慣れるのには少し時間が掛かりました。

バスは30分に1本、時々1本運行しないと1時間待ったことも多々、

日曜日と祝日はバスが走らないと知らず、延々とバス停で待ちました。

スーパーマーケットが遠く、初めての夏「アイスクリームを買って帰れない」とささいな事に嘆いていました。

5年も住んだ今でも近所の家の人々、誰が住んでいるのかほとんど知りません、時々人を見かけ挨拶しようとし目が合うとさぁ~~と家に入られ

「私を見かけると逃げられる」と主人に嘆くと

「イタリア人の僕でも同じだよ」と言われ少しは気が紛れましたが

数年前、夕食の準備をしている時にガス台のコルクが回らなくなり

火を消せなく、あわててしまった私は元栓を探せば何の問題もなかったのですが、ガス会社に電話すると「それは私達では対処できない」と言われ、大袈裟だと思いつつも大事になるよりはいいと思い、消防署に電話をすると大型消防車でサイレンを鳴り響かせ4人の消防士の方がすぐに駆けつけてくれました。

「こんな事で呼んでしまってすみません」と言うと「些細な事で大きな火事になるのだから、直ぐに電話してくれていいのですよ」と親切に対応してもらえました。

近所の人達が心配して飛び出してくるだろうなと恥ずかしい気持ちでしたが、

誰一人様子を伺いに来る人も無くまるで無人の地にいるような気がしました。

誰が何をしていようと無関心が当たり前のような世の中に生きていると感じる時

これほど寂しい事はありません。

日本では近所の人達に恵まれ「今帰ったの、お茶飲んでいかない?」

という環境で育ち、イタリア生活をスタートしたローマでも前のアパートの人とベランダ越しに会うと「お昼一緒に食べない?」などよく誘ってもらっていた当たり前と思っていた人との触れ合いがそうでもなかったのだと実感しました。

2年前に自転車を買ってからは、不便さは随分解消され

数ヶ月前、駅に向かいいつもとは違う2本横の細い道を走ってみると、家々の外観は裕福とは程遠く、その道沿いのアパートにマリア・ローザという老女が一人で住んでいます。私は毎朝この道を走り駅向かうようになったある朝、彼女の家の窓が

パァ~~ト開き目があった瞬間に思わず「ボンジョルノ」と挨拶すると

「ボンジョルノ・シニョーラ」と満面の笑顔で挨拶を返された時

いつも心の中にあった霞がスーッと吹き去り暖かく幸せな気持ちになりました。

数日後の朝、又出逢うと「ボンジョルノ・カーラ(こんにちは、親愛なる人)」とマリアさんの方から声をかけてもらった時は、心がワクワク躍りだし元気が漲りました。

彼女の家の開けはなれた窓から中を窺うと、ワンルームの狭いアパートです

その中には暖かい風がそよいでいるように見えました。

お庭もしっかり手入れされた大きな家のいつも閉められた窓とは対象的な印象です。「貧しい者は幸いである」聖書の福音が語りかけてくれました。

もうすぐサロンノを引っ越しますが、この街に住んだ数年を思い出す時

マリアさんのお陰で暖かい思い出が残りました。

人間は笑う事により他の全ての生物よりすぐれている (エディソン)

安澤 結花

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