ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

2008年8月3日 ・ 年間第十八主日

福音 マタイ 1413-21

イエスは〔洗礼者ヨハネが死んだこと〕を聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

福音を顧みて

四つの福音書は主の言葉と行動を私たちまで伝えてくれますが、幸いに各福音書はかなり違った観点から主の言動を記してくれますので、主の姿はより立体的に輝いて来ます。四つの福音書は同じ表現で同じ話を掲載するのはほとんどありませんので、四つの福音書にそろって出ている出来事は主の死と復活、そして今日読まれる五つのパンと二匹の魚の話ぐらいです。それほど、弟子たちの記憶に染み込んだ主の言動だったからでしょう。言うまでもなく、飢えた群衆に食物を分かち与えて下さる主の姿は、最後の晩餐でパンを裂き、ぶどう酒の杯を与えられた主の行動を連想せざるを得ません。

確かに、主の教えによりますと、食べ物と飲み物を頂く姿勢には、人の心の真偽が分かります。生きるものは常に他の生き物の体を食べ、その血を飲まなければ生きられないのは事実です。林檎一個でも、米の一粒でも、肉の1きれでも、私たちを養ってくれるのは、他の生き物の体と血です。水も、山の動脈から沸いて来る地球の血と言ってもいいですね。他の体のお陰で、また他の犠牲のお陰で、自己があるのだと自覚する人は、今日の福音に描かれる主の動作に、きっと深く感動します。主と同じで、汗をかいて食べ物を得る人ならば、なおさら感銘するでしょう。

五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」。おびただしい人々の前で、せいぜい一人か二人にしか足らない僅かな五つのパンと二匹の魚を主はつつましく手に拾い、天に目を向けて感謝を唱えられました。僅かなパンと魚でも、いやそのためになおさら感謝を唱えられました。麦の一粒が実るために全宇宙が勉めてくれたし、魚一匹が太るためにも、海の摂理が小さい魚を見守ってくれたからです。僅かなパンと魚が主の手によって裂かれる間に、減るどころか増えておびただしい群集の飢えを満たしてくれました。

カトリック教会では、聖体拝領がもっとも尊い秘跡です。秘跡とは、儀式によるたとえ話と思っていいです。いわば、ミサの儀式に限らず、食事を取るたびに私たちは「キリストの体と血」によって養われています。私を養うために自分の命を捧げた動物と植物は、やはり「キリストの体、キリストの血」です。「取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される私の体。。。流される私の血です。」

食卓に着いたら、手を合わせて、頭をかがめながら「有難う」と祈りましよう!他の命を食べて育つ私たちも、他を支える食べ物と飲み物になりつつ、この日も次の日も生きるのです。

分かち合い

押田成人師著「ばらのまどい」より

人を裁いてはいけない。なんじが裁かれないためである。人の心からちりをのぞこうと思えばまず、なんじの目からうつばりをのぞくことである。

この「うつばり」の意味が解りません。教えて下さい。宜しくお願いします。

「イエスから頂いた処方箋」に書いてあった様にその人の否定的な部分しか見えていない事です。 うつばりは「柱上に渡して小屋組みを受ける横木」(広辞苑)。藁の屑のような人の小さな欠点には私たちの目が鋭いのに、「うつばり」のような大きい自分の欠点に対しては、鈍いことを指しています。

又、同書の中に

変転は背を向けることではありません。それは、別れることです。

自分に別れることであり、自分と共にあった人格たちとの過去のかかわりあいと別れることです。

しかし、それは、断絶することではありません。

それは、過去と別れ、別の、より高いところへ去ってゆくことです。

しかも、それは、断絶ではないのです。新しい姿をもって帰還することなのです。この変転は、人格の円熟の固有の機能です。変転する者は、いつも新しい者です。それは勇気のいることですが、祝福の泉です。

変転する者の心は、いつも神に向かって開かれています。

という上記の一説はとっても心に響きました「断絶することではないのです」この一言に心が救われました、又最後の文書は勇気を頂けました。     安澤結花

今週の福音

3 日 マタイ1413-21

4 月 マタイ1422-36

5 火 マタイ151- 2

6 水 マタイ171- 9

7 木 マタイ1613-23

8 金 マタイ1624-28

9 土 マタイ1714-20

10 日 マタイ1422-33

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