ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

392008年 ・ 四旬節第5日曜日 

福音 ヨハネ 111-45

以下は四旬節第四日曜日に読まれる福音の一箇所です(11, 23-27; 38-45

イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる人は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております。」。。。

イエスは、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、ご覧下さい」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「ご覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。。。。イエスは、再び心にに憤りを覚えて、墓に来られた。墓は、洞穴で、石で塞がれていた。。。イエスはてんを仰いで言われた。「父よ、私の願いを聞き入れてくださって感謝します。私の願いをいつも聞いてくださることを、私は知っています。しかし、私がこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたが私をお遣わしになったことを、彼らに信じさえるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。。。

福音を顧みて

四旬節第五日曜日には、イエスがラザロを復活させた福音を読むことになっています。いうまでもなく、四旬節はすでに洗礼を受けている信者も、復活祭に洗礼を受けようと決心している求道者も、一人残らずこの世の命に死に、永遠の命に復活するように召されていることを自覚する「恵みの時」です。言い換えれば、四旬節の間に私たちが毎日少しずつ何かに死に、キリストにおいて何かに復活するように呼びかけられている「改心の時」です。復活は決して死後だけに与えられる恵みではなく、現生における何処でも何時でも、私たちが生活の困難を乗り越えさせ、永遠の命に与るものに甦らせてくれる希望です。ラザロの復活は、ラザロが現生の途中にあって、まだ最終的な死を遂げない内に、永遠の復活を味見させていただいた恵みです。私たちも、毎日の生活の途上にある現在、いくらでも永遠の復活の味見をさせていただいています。特に、ミサ聖祭は、復活の宴の前夜祭と言えましょうか、確かに、まだ死に向かう道を歩みかかっている今の私たちが、一休息して永遠の祝宴の味見することが出来る「復活の典礼」です。

「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」(2コリント4、10)。主と共に死に、主ともに復活するという信仰は人間の体験に限らず、自然界の法則にも及んでいます。死と復活の交わり合いの中にあって、土に埋まった一個の種が死ぬことによって、一本の茎が芽生え、成長し、遂に身を実らせてから、再び死を迎えます。呼吸の原理も見事にそれを現はしてくれます。清い息を肺内に吸い、血液の炭素を除いたり同時に酸素を伝えたりしてからは、再び外に吐かされるのです。呼吸ごとに私たちは、無意識でも主の死を思い、復活を称えています。「主の死を思い、復活を称えよう、主が来られるまで」。

Tomy君は四歳未満で、走ったり遊んだりするのが大好きな幼児です。去年の5月に珍しい白血病を背負っていることが分かってからは、骨髄の萎縮のために厳しkて長い入院生活をせねばならない状況においても、Tomy君は見守るお母さんににこにこした顔を送り返していました。最新の手当てにも拘らず、病気が進んでいく一方です。医者から到着点が近いと言われた母親は、きわめて優しくて明るい表現をもって子供を死の神秘に案内してあげました。Tomy君が死の道行きを体感しているかのように、見舞いに来る大人たちには何か深いものを送り返してくれます。まだ洗礼を受けていなかったTomy君は3月一日に地元の教会で受洗の恵みを受けました。「Tomyのためにリュックサックサックを用意する時が来たので、手伝いに来ていただきませんか」とお母さんが司祭の私に電話なさいました。鐘楼の鐘が鳴るうちに、白い花で飾られた地元の教会でTomy君が洗礼を授かりました。洗礼名は「神の子羊」。工業の汚染化の犠牲者かもしれない幼子は十字架の運命を背負いながら世の罪を祓ってくれるではないかと。。。現代のキリストにさに参与して。。。儀式の初めにTomy君のお母さんは病気の子供を見守るうちに、子供の顔つきや目玉を見つめながら、長短を問わない生命の聖なる価値を悟るように導かれたと証明してくださいました。永遠の復活の深い味見!

今週の毎日の福音

09日 ヨハネ 11, 01-45

10 ヨハネ 8, 1-11

11 火 ヨハネ  8, 21-30

12 水 ヨハネ 8, 31-42

13 木ヨハネ 8, 51-59

14 金 ヨハネ  10, 31-42

15 土ヨハネ 11, 45-56

16日 ヨハネ 11, 01-45

洗礼への道行きを求道者と共に

Cappellania の教会堂 (Piazza Duomo)

  • 四旬節第345日曜日の各ミサ(11,30)に開放・祝福の祈りが唱えられる。       

 上記の日曜日は32日、9日、16日です。なお、16日は枝の主日です。

  • 聖木曜日〔320日午後7.309.00〕最後の晩餐の記念(洗足式、黙想、聖餐)

  • 聖金曜日断食の日(321日午後7.309.00) 十字架の記念、道行き

  • 聖土曜日〔322日〕受洗前日:隠遁の日

  • 復活祭 (323日午前11.30)洗礼ミサ

  • 復活節の第一日曜日(330日)喜びの巡礼の予定日

  • 聖霊降臨祭(511日)に備えて初許しの秘跡

以下はベネヂクト十六世教皇の四旬節メッセージより第5・6章です。

5.  施しは愛の寛大さをわたしたちに教えます。聖ヨゼフ・ベネディクト・コットレンゴは次のように率直に忠告しています。「あなたが施した額を記録してはな りません。なぜなら、わたしがいつも言っているように、施しを行っているときに、左手が右手のやっていることを知るべきではないとすれば、右手もそれ自身 がやっていることを知るべきではないからです」(Detti e pensieri, Edilibri, n. 201)。これに関連して、福音書の中のやもめの献金の話はさらに重要です。彼女は、乏しい中から「生活費の全部」(マルコ1244)を賽銭箱に入れま した。そのほんのわずかな献金が多くを語るシンボルとなっています。このやもめは、有り余る中から、持っている何かを神にささげるのではなく、彼女の存在 をささげます。つまりそれは、自分のすべてなのです。
 この感動的な一節は、イエスの受難と死の直前の数日間の記述の中にあります。聖パウロの記述によれば、主はわたしたちのために貧しくなられましたが、そ れはその貧しさによってわたしたちが豊かになるためでした(二コリント89参照)。主はわたしたちにご自分のすべてを与えてくださいました。四旬節は、 施しの実践を通しても主の模範に従うよう、わたしたちを駆り立てます。主の学びやでは、自分のいのちを完全な贈り物とすることを学ぶことができます。つま り、キリストに倣って、わたしたちは持っているものの一部ではなく、自分のすべてを与えることができるようになるのです。福音書全体は、ただ一つの愛のお きてに集約できるのではありませんでしたか?ですから、四旬節の施しの実践は、わたしたちキリスト者の召命を深める手段となります。キリスト者は無償で自 分自身を与えることによって、自らの存在の意義を決定するのは物質的な富ではなく、愛であることを証明するのです。それゆえ、施しに価値を与えるのは愛で あり、一人ひとりの可能性と状況に応じてさまざまな形の施しを促すのも愛なのです。

6.  兄弟姉妹の皆さん、四旬節は、わたしたちが愛のうちに成長し、貧しいキリストご自身を知るために、施しの実践を通しても霊的な自己鍛錬を行うよう招いて います。使徒言行録によると、神殿の門で施しを乞うていた足の不自由な男に使徒ペトロはこう語りました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあ げよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録36)。施しをするにあたって、わたしたちは物的な何かを差し出 しますが、それは、キリストを宣言しあかしすることを通して他者に分け与える、より大いなる贈り物のしるしです。キリストの名のうちに、わたしたちは真の いのちを見いだすからです。ですから、今この時に、キリストの愛の証人となるために、個人としても共同体としても主に近づく努力をいたしましょう。霊的に 新たにされて復活祭を喜び迎えるために、祈りと断食と施しの実践という武具を身にまとい、四旬節の「霊的戦い」に向かう信者を、母であり主の忠実なはした めである聖母マリアが助けてくださいますように。これらの願いとともに、わたしは心からすべての人に使徒的祝福を送ります。

20071030
バチカンにて
教皇ベネディクト十六世

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