ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

2008720日 ・ 年間第十六主日

福音 マタイ 13,24-43

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「わたしは口を開いてたとえを用い、
天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

福音を顧みて

先週に続いて、今日のミサにも主が宛ててくださる福音は種蒔きのたとえ話です。今回は、良い麦と毒麦、そして芥子だねの想像を用いて、厳しく、しかも優しく道を諭してくださいます。「私は口を開いて例えを用い、天地の創造のときから隠されていたことを告げる」とあるように、主の福音はいつも例えのベールにまとわれ、耳を傾ける人が毎日の生活を送りながら、一歩一歩とその深い意義を解いて行きます。突然に悟りを得たら、おそらく人間はその自覚のために自惚れ、悟る瞬間に再び傲慢の淵に転んでしまうかも知りません。真理の啓示は種の成長のように目立たず、謙遜な心に開かれるのです。

福音を述べるのに主がもっとも使用された二つの例えは、「種」と「宴会」であることに注意しましょう。「種」は信仰と希望を、「宴会」は愛を連想させ、実感させてくれるイメージです。更に、前者は現世の道を、後者は御国の安息を指してくれます。その最中に、私たちの「今日」があるのです。

良い麦と毒麦のたとえ話に心を留めていただきたいところは、毒麦を早速根こそぎにしようと焦る農夫たちに対しては、「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」という主のお答えです。世の中の不幸は他人の悪い行動のせいだと裁きがちなこの私たちを、如何に強くとがめてくれるお言葉ですね!気まぐれな子供を持つ親が主のお言葉に納得するでしょう。周囲からいかめしく見られるあの子も、親が見捨てることはあり得ない。「刈り入れまで」、すなわち「大きくなるまで待ってください、きっとわが子も分かって立派な大人になるでしょう」と親が祈って止みません。

キリスト教においては、歴史の長い旅が神に至るための本道とされ、近くて楽な道の優遇を求めることは、却って聖霊に背く誘惑と見なされています。「主が来られるまで」と私たちがミサの中に唱えるのですが、それは遅れる兄弟たちを待ちながら、また彼らに手を伸ばしながら、という小道を辿り続けることです。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あすこにある』と言い得るものではない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」〔ルカ17,20-21〕。そうであれば、「刈り入れまで」辛抱強く待ちつつ生きるのですね。私たちが主より神の素早い勝利を焦るのは、信仰が深いためだろうか、あるいは浅いためだろうか。「耳ある者」が分かるでしょう。

信仰の歩みは、決して勝利の凱旋を潜ることを焦ることではありません。却って、深い信頼心の旅です。私たち一人一人の中に一粒の芥子種が蒔かれていて、それが私たちの中に芽生え、欠点の雑草と一緒に育ちます。損と思ったあの欠点も、そのお陰で自惚れる誘惑に落ちないようにという恵みに変わりました。土壌さえ謙遜であれば。。。庭に作られた花が美しければ、荒地の自生の花は負けないです。周りの雑草と対照的に、より美しく。。。 神がその宝石を灰の下に隠されるようです、傲慢の悪魔がそれを見つけて盗んでしまわないように。私たちも、最後の日まで良い麦と毒麦が仲良くお付き合いして出来るように、「主が来られるまで」!

今週の福音

20 日 マタイ13,24-43

21 月 マタイ12,38-42

22 火 ヨハネ20,1-2,11-18

23 水 マタイ13,1-9

24 木 マタイ13,10-17

25 金 マタイ20,20-28

26 土 マタイ13,24-30

27 日 マタイ13, 44-52

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先月29()の清Mariaちゃんの洗礼式の写真が届いたので、その喜びに与っていただけますように回送いたします。

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使徒パウロ誕生2000周年を記念して

教皇様ベネディクト16世が使徒パウロ誕生2000周年を記念する特別「聖年」お開きになりました。今年こそ個人で、またはグループで使徒パウロの書簡を熟読するときです。一切は便利になっためか、苦労もせず安楽な生活を送る多くの現代人は、気力を緩め、自分から人生を生きるより生かされるままに流れるのです。

今年は、偉大な使徒パウロに関するいろんな証言が雑誌や新聞に掲載されるでしょう。そういった記事の意義深い一部分でも抜粋して、ほかの方々にも回送できるようにこの週報に宛てて送ってください。言うまでもなく、自分自身の証言なら、なおさら意義があって、嬉しいことです。御協力を有難う!。さて、メールは週報の係りreikosoprano@yahoo.co.jpに送ってください。    ルチアーノ神父

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