ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

2008727日 ・ 年間第十七主日

福音 マタイ 13,44-52

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

福音を顧みて

先週の日曜日に読まれた「良い麦と毒麦」のたとえ話に関する解説文の締めくくりとして、「私たちも、最後の日まで良い麦と毒麦が仲良くお付き合いして出来るように、主が来られるまで」という奨励の言葉を書き送りました。良い麦と毒麦の仲良くして生きるというのは、決して中途半端、いわば半日は良い麦で、あとの半日は毒麦での生き方を指すのではなく、かえって、限界も含めた有りのままの全自分を御国に捧げ尽くす信仰心を宣べるのです。純粋な心を祝福してくださる主の目には、それこそ御国への憧れる正しくて尊い心と見られるのです。自分はカトリックだからと、毒麦を世間で見て、冷ややかに遠い所に自分を置いておくのではなく、信徒として(イエス様ならどうお考えになるでしょう)、その人の身になって『愛の教え』を伝える事が出来れば、「聖なるかな心の貧しきもの」の実現ですでは、「良い麦と毒麦」のたとえ話に継ぐ「宝の発見のたとえ話」を熟慮しましょう。当日曜日の福音です。

先ず、御国は畑に隠された宝だというイメージに注意しましょう。その畑とは、他ならぬ良い麦も毒麦も一緒に育つ人生の範囲を指しています。私たちは、もし山をえぐって宝を見つけた場合、早速それを拾って、しっかりと金庫に納めておくでしょう。不思議にも、福音の人は、「そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」とあります。宝そのものではなく、それが隠れている畑を買うというのは、真の信仰を得た信者が宗教界に閉じこもるどころか、人生全体に関心を向け、広い天地を敬い、社会の状況に心をかける実生活を「買う」、すなわち大事にするということです。良い麦も毒麦も一緒に育つこの世の中を!この面においては、キリスト教と仏教の間に違った感覚があると否めません。宝を見つけた真の仏教徒は、おそらく畑ではなく、宝の方を買ったに違いありません。悟りの道は出家だからです。

畑とは自分自身のことでもあり、宝を見つけた人は自分の欠点を嫌がる聖人振りをせず、有りのままの自分を持って主に付いて行きます。時には、根強くていつまでも直ってくれない自分の欠点に振り向いて、「ご免ね」と愉快に。

畑に隠れた宝を見つけた人も、高価な真珠を見つけた商人も、「出かけて行って、持ち物をすっかり売り払い、それを買う」と書いてあります。キリスト信者は、良い麦と毒麦が一緒に育つ畑に張った露天の幕屋に宿りますが、その反面、胸の中に強くて清い一心を宿すのです。良い麦と毒麦の間を歩きながら、神の国に向かう一心を貫きます。自転車は弱い乗り物だが、しっかりとこげば安全で、また扇の羽も軽い物ですが、軸によってしっかりとまとまって風をおこす力を得るように。露天の幕屋に宿るキリスト信者は一心を根拠とするのです。一心とは、「何か一つ」のために一切を喜んで売り払う事であり、その決心を得る為には、先ずその「何か一つ」をはっきりと見分け、確認する事です。軸無しの扇はただばらばらの羽であるように、「何か一つ」を見つけなかった人間は、方向を知らず生き甲斐が漏れるだけです。

分かち合い

私にとったら宝物は御言葉とお祈りです。いつも神様の近くにいられる程、満ち足りて安らかな事はありません。澄玲

先週の福音、今週の福音の分かち合いをしたいと思っております。簡単な感想文、又は神父様への質問等が御座いましたら遠慮なくお送り下さい。聖書に関しての質問は必ずどこの、何章、何節と言う事を明記して下さい。記名は姓名を書いても良いし、苗字なしで名前だけとか、イニシャルとか又は「野の小さな花」とか洗礼名でも構いません。信仰の道は1人ではなく、皆と一緒に分け合うと言う事でしょう。

今週の福音

27 日 マタイ1344-52

28 月 マタイ1331-35

29 火 ヨハネ1119-27

30 水 マタイ1344-46

31 木 マタイ1347-53

1 金 マタイ1354-58

2 土 マタイ141-12

3 日 マタイ1413-21

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去年、前田光範さんと麻里さんが新婚旅行の先でミラノを訪れたとき、Cappellania(日本人会教会)にも寄り、ごミサに与りました。日本に帰ってからも、週報を通してミラノの出会いを保ってくれていますが、3週間前の週報は、どういうわけか、届いても開けなかったために、再発送を願ってき来ました。2度目もだめで、3度めは違った方法で送れば開けたそうです。日本でもこの週報を読んでくれる方が何十人もいるようで、嬉しい反面、うかつな操作のために不行き届きの結果もあるそうで、ご免下さい。(ルチアーノ神父)

8月20日 Luciano神父様ご無沙汰しております。種子島の前田です。

お変わりありせんか。こちらは、私も、妻の麻里も、教会のみんなも、元気に過ごしています。

イタリアでお会いできてから、もう半年も経ってしまいました。

イタリア旅行の余韻に浸る間もなく、日々の忙しさに追われております。

しかし、ミラノでの神父様との再会は、一番の嬉しい思い出となっています。

本当にありがとうございました。

ところで、話は変わりますが、毎週、週報を楽しく読ませて頂いております。

紙面で神父様から説教を受け、聖書の言葉にふれ、改めて考えさせられることがよくあります。最近、聖書を勉強し直しているところです。

それで、その週報のことなのですが、前々回の7/12発信・第15主日のワードファイルがエラーとなって開きません。よろしければ、手の空いた時にでも再送信していただけないでしょうか。どうぞ、よろしくお願いいたします。

それでは、ミラノの信者さん方にも、よろしくお伝えください。

神父様のご健康をお祈りしています。  前田光範

72112時 ルチアーノ神父様

週報、届きましたよ!メールでちゃんと読めました。

「福音を顧みて」は、いつも心に響きます。力をいただけるように感じて読んでいます。これからも、できる限り続けていただけると嬉しいです。ところで、一番肝心な連絡が書かれた週報を読めていなかったんですね。文化交流センターとは、すばらしいですね。どのような展開になるのか、楽しみにしています。

私も、仕事の関係で、禅宗(臨済宗です)の和尚と接する機会があります。

納得できることも多いのですが、カトリックと考え方が決定的に違うように感ずることもしばしばです。最近、カトリックの勉強をし直しているのも、このあたりに原因があります。対比することで、自分のことがよく分かってくるのですね。いつか、神父様と禅のこともお話できたらと願っています。

もし、私にも何か協力できることがありましたら、ご連絡ください。

文化交流センターが、たくさんの実りをもたらしますよう、お祈りしています。

前田光範

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添付にて、Desio新センターの庭一角

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