ミラノ日本人カトリック教会
Milano Cappellania Cattolica Giapponese (Luciano Mazzocchi
神父)

316-23 2008年 ・ 聖週間

以下は枝の行列の典礼に読まれる福音ですが、聖週間に読まれる福音の箇所は多くて意義深いものです。その熟読は改心の小道を照らしてくれますので、今週の大事な努めに致しましょう。次の週報は330日です。

福音 マタイ211-11

イエスの一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベツファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「無効の村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それを解いて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、「主がお入り用なのです」と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。“シオンの娘に告げよ。見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。”」

弟子たちは行って、イエスが命じられた通りにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった.大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、他の人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にオサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高き所にオサナ。」

イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで、群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

福音を顧みて

四旬節が始まってから第六日曜日の今日は、枝の主日とも、ご受難の主日とも呼ばれています。どちらも正式の名前で、何故かと言うと、聖週間を開始するこの日曜日に、枝を振るいながらイエスにオサナの称賛を叫んだすぐ後に、「十字架につけろ」の宣告に変わったあの心の葛藤は、如何に私たちの生活にも交差し、如何に私たちの態度も左右していることでしょう。私たちのこの矛盾的な姿を見つめるところから、改心の道を一歩一歩と辿り着いて行きましょう。聖週間は改心の聖なる時です。

イエスを敵視していた神殿の司祭たちだけではなく、イエスの奇跡に見取られて無意識的にイエスについていた群衆だけではなく、イエスと親しんだ弟子たちも、ついに主を離れてしまいました。初めてイエスと出合ったときに見取られたとしても、一応信じた主を、いつか捨てて見たい根性が出て来ます。徹底的にキリストに従うためには、一度か何度か離れて見て、離れたままで心は安らがないことを体験しなければならない「改心の狭き門」を通る必要があります。いわば、最初の見合いだけで足りません。おそらく、最初の出会いでは、十字架の道はまだ浮き彫りに出ないかもしれません。弟子たちは、教えを述べる主を迎えていても、十字架に身を委ねるキリストを認めることは出来ませんでした。キリスト信者でない方々もイエスの教えを認めて尊敬しているが、十字架上の人間に神の子を認めることは出来ません。出来れば、キリスト信者です。十字架を背負う主を信仰するためには、一応、主を捨てて離れてしまったこの私を、主が十字架を背負って救いに来てくださる体験をしない限りは、私は十字架の愛を知らないでしょう。尊い教えを述べる主の肩に十字架を背負わせるのは、他ならぬこの私だと知るように辿り着いたときこそ、「イエスは主だ」と、叫ばざるを得ないでしょう!結局、主の復活は他なら弟子たちの復活です。私の復活です。信仰と希望と愛に復活させていただいた私は、復活された主の体の細胞です。信仰から感謝が湧き、心から無償の愛が働き出ます。仏道には悟りを得ることによって真の生き方に目覚めるのであれば、キリスト道には永遠の愛で常に許されていることを体験することによって、自分も永遠なる愛の流れの一滴として甦ることにあります。復活は謙遜な心で、感謝のうちに努力を尽くす道です。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10,8)。復活は無償の全力です。神の性質に参与することです。愛です。

今週、主の体の細胞として、主と共に死に、主と共に復活しよう。そして、この体験を毎日の生活の土台と致しましょう。

聖週間の毎日の福音

16日 マタイ 26章 – 27

17 ヨハネ 12, 1-11

18 火 ヨハネ 13, 21-38

19 水 マタイ 26,14-25

20 木ヨハネ 13,1-13

21 金 ヨハネ 18章 – 19

22 土 マタイ 28, 1-10

23日 ヨハネ 20, 1-9

聖週間の典礼一覧

以下の行事はミラノ日本人カトリック教会 (Piazza Duomo 18) で行われます。

聖木曜日〔320日午後7.309.00時〕最後の晩餐の記念:洗足式、黙想、聖餐

聖金曜(321日午後7.309.00) 断食の日:十字架の記念、道行き

聖土曜日〔322日時〕受洗前日:個人的黙想・黙祷の日

Sant’Ambrogio教会、21.00時、洗礼式を兼ねる前夜祭

復活祭 (323日午前11.30)洗礼式を兼ねる復活祭のミサ

復活節の第一日曜日(330日):感謝の巡礼

注意:詳細は復活祭の手紙で

以下はTettamanzi 大司教様がミラノ教区内に住んでいるすべての家族にあてた「復活祭の奨励の手紙」とも言える文章の一節です。週間を機してキリスト教的な家庭を築こうと願うのは、他ならぬ、主とともに死に、主とともに復活することです。聖週間の反省の呼びかけとして。。。

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回復せねばならない賜物

「神の賜物とその恵みの受用は、私たちにとって大きく、しかも一貫した意識を、再び燃えたたせねばなりません。それは、使徒パオロが弟子テモテに

常に要求していたものです。「そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、先ずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、私は確信しています。そういうわけで、私が手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。」(2テモテ、1:5―6)いうまでもなく使徒派、按手によって叙階された恵みに関していっていますが、しかし主から与えられるすべての賜物に関してもあてるべきです。特に秘跡に関しては、ここで論じているそのひとつはキリストによる結婚に関してです。

パオロが使った動詞「再び燃え立たせる」をじっくり見てみますと、文字通り消えかかる火を、灰に埋まっている炭火を再び燃え立たせます。消えたように見えた場合でも、炎はない、外見的な炎の陰形もないものが、再び聖霊の息吹によって燃え立たせることが出来ます。聖霊の息吹には常にどんな状況に陥ってしまっても、もう一度やり直す再出発が可能です。

この「再び燃え立たせる」というのは、我々人間に委託されているのは言うまでもないけれども、しかしまず神の賜物の中から創造的な湧き出る働きであるということを忘れてはいけません。最初に言い換えるならば、神自身が神の賜物を再び燃え立たせるかのように。私たちに課された役は、人生のどんな時期をもとわず常に祈りをもって神を呼び求めることです。「主よ、私たちの信仰を増してください」(ルカ17.5)

このように神の賜物は、信仰をより活かして、より実らす姿勢や態度を招きます。その生き方こそ、他人に「伝わる」より豊かな強い手本です。

これを実現するためには、3つの意向が必要です。ここでは、ただそれに触れるだけで、その広く実際的な適用は家族や小教区に意図的に任せます。信仰の賜物は、神のみ言葉を聞くことによって、また祈りによって、そして福音が述べる至福に基づいた信者の生活、それこそ世間的な生き方に替わるものです。

  1. 信仰の賜物を守り、またその価値を活かすために、親も子供も神の啓示に心を合わせるためには、自分の家に特に聖書にしるされた御言葉、神の言葉を迎えいれるのが、大切です。上記のキリスト信者のつとめを果たすために、家庭では小教区の支えと励ましが必要になります。というのは、暫時的に聖書の熟読、祈りながら読む、それによって心を込めた自発的なキリストとの出会いに導いてあげることです。この神の永遠なる言葉はキリストに受肉された故に私たちの耳に「聞こえる言葉」となりました。それを希望する人がいれば、聖書の熟読を助ける参考書やテキストがいくらでもあります。最近教区では「Leggere la Bibbia in famiglia(家族で読む聖書)というタイトルの特別編集された聖書が出版されました。こういった聖書を子供の洗礼や結婚式の機会を活かし徹底的に普及させればよいのではないでしょうか?これにおいて、昨年発表した「Famiglia ascolata la parola di Dio」の49-50節を参照してください。

  2. 神の御言葉に対し、私たちはいろいろな形で答えることが出来ます。その第1番目が祈りです。祈りこそ、信仰の声、すなわち、信仰自体が感謝の声。感謝、賛美、取次ぎ、援助の願い、主の慈しみ深い愛へのよびかけです。このように信仰のない祈りはないように、祈りのない信仰はありません。と言うわけで、家の中に祈りはなくてはなりません。すなわち家族皆の心、口、毎日の生活事態が祈りに馴染まなくてはなりません。これが、神の賜物の価値を評価するため、守るため、そして実らすためにも祈りはその特権を持つ道であります。信仰を貫く使命の完成は、祈りから沸く基本的な恵みです。そしてまた家族内に主がおられるのを体験をさせてくれる身近な手段は祈りです。ある教会の教父が家族の難儀と苦労、希望と喜びの中に主がおられるという事実は次の聖書の言葉からも読み取れます。「はっきりいっておくが、どんな願い事であれ、あなたがたの内二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名に寄って集まるところには私もその中にいるのである。」(マタイ18:19-20)

  1. 信仰の賜物は、生活に染みこみ、その生活を変容させます。

すなわち私たちの生活を主の生活に適用させ、また私たちの判断と選択は主の心に一致させます。それによって、私たちに新しいキリスト教的な生活スタイルが暗示され、またそれが活かされます。キリスト教的スタイルとは、世間的なものと違って、キリストの至福の価値観に心を置くからこそ、生命の円満さ、真の自由、平常の喜びを仰いでいます。

「イエス・キリストによって命をもたらす霊の法則」(ローマ人8,2)によって、活性化され、形作られます。

又、神の賜物は私たちの先に働き出し、支えてくださいます。そして、福音の至福の知恵は福音書の表現によれば、勿論「狭き門」となりますが、妨げるどころか、より豊かな生き方の保障でもあり、第一歩でもあります。これこそ人間の生活、愛、自由に対する神の励ましです。

家族や共同体の大小を一切問わないに人生における環境や人間関係において、私たちが神から頂いた賜物にふさわしく生きましょう。夫婦も、家族も、共同体も上記にあげたように生きることによって、現世に対する福音の実証は確実です。」

Tettamanzi Dionigi 大司教

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