Gio 15 Gen 2015 Scritto da Pierinux AGGIUNGI COMMENTO

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Giuseppe Siniscalchi  の「無限の平和」絵

信仰の道ずれに宛てた新年状
(ルチアーノ神父)

明けましておめでとうございます。
Cappellania の閉鎖につれて出会う機会が少なくなって来ましたが、相変わらず聖霊によ って結び合っており、又相変わらず主の祝福と聖母の見守りのもとにて、それぞれの場で 毎日の勤めに励み合っております。
感謝を込めて新年を迎えたばかりのところに届いたニュースは、文化と宗教間の対立に
根付く虐殺の惨事でした。文化と宗教の違いを乗り越えた真の平和を実現することこそ、
神様から委託される今年の委任でしょう。和解への道のりは長いけれども、対話しながら
支え合って一歩一歩進んで行きましょう。対話とは、先ずお互いの先入観を脱ぎ、お互い
の生の声を聞き入れ、お互いに相手の立場を実感し合うことです。相手の喜怒哀楽の声が
我が身に沁みらせない限り、抽象的な論争だけでは真心の対話が決して生まれないし、平
和にいたることも在り得ません。
人間の困難を痛感されたイエス様、この世を去る数時間前に弟子達に「互いに愛し合い
なさい」と命じて下さいました。相互の愛によって人生の重荷が軽くなります。
1 月 11 日は「主の洗礼」の祝日でした。ロマノ典礼によるミサの第二朗読として読まれ た「ヨハネの手紙」の箇所には次の一節がありました。「世に打ち勝つ勝利、それは私た ちの信仰です」。少し先に次の一節もありました。「証するのは三者で、霊と水と血で す」(ヨハネ第一手紙 5,5-8)。不思議な三者ですね。実際、水と血と霊は洗礼の恵みの 次元を指しています。聖書にある「洗礼」に当たる原語は「バプチスマ」で、その直訳は
「洗礼」ではなくて「浸礼」です。ただ「洗う」だけではなく、浸かることです。と言う
と、私たちが受けた洗礼は、「水、血、霊」に浸ったことになります。
「水」による浸礼 は大自然の生命に我が身、また我が魂を浸すということです。大自然 の営みの最中に生かしていただく故に、大自然に自分を帰し、大自然に対しては崇拝と感 謝の心を持つ謙遜な信仰です。実った米の穂のように頭をかがんで。。。
「血」による浸礼 は歴史の流れに我が身も、我が魂も浸すことです。人間たちは同じ 平和を求める道ずれで在りながら、途中で意見の相違のために揉め合ったり、傷つけあっ たり、時には殺し合ったりします。血とは流されるすべての涙です。十字架に付けられた イエス様の体から 垂れた血の滴が世を清めてくださいました。それに私たちの目から流 れる涙の滴も、もしかしたら血の滴も一流となって。。。
「霊」による浸礼 は我が身も、我が魂も神様の聖霊に浸すことです。そして、聖霊の 息吹によって神化され、真・善・美の文化を咲かすのです。「ただで受けたのだから、た だで与えなさい」(マタイ 10,8)とイエス様が諭してくださいました。
今年も、大自然を大事に、歴史の現実に挺身して、聖霊の息吹を浴びながら新年の道則
を尽くして活きましょう。
朝来泰生さんから 2014 年度の決算の報告があったと思います。去年、皆さんから頂いた ミサ献金、そして冠婚葬祭などの特別献金の総額は 5000 ユーロを越しましたが、 Cappellania の閉鎖までの 11 月間余りの経費を引いての残高は 2000 ユーロを上回っていま す。この残高の半分は日本語の信仰に関する新図書の取り入れなどのために取って置いて、 後の半分は Sierra Leone の Ebola 疫病の治療・予防の対策に充てさせていただきました。 (Sierra Leone で働く同修道会を通して)。
感謝!
主の祝福のもとに恵み豊かな 2015 年を。。。ルチアーノ神父
追加
ご存知の事と存じますが、

毎日曜日は Muzzano の教会で 9:00 からミサ、Desio で 11:10 からミサを捧げております。

  • Desio のミサには日本人の信者が出席の場合、朗読と説教などが日本語にもしております。
  • 毎火・水曜日は San Babila 教会で 16:30-18:30 は許しの秘跡と信仰の話、19:00 はミさ
  • 毎金曜日は Duomo で 7:00 ー 10、12:00-15:00 許しの秘跡と信仰の話

Desio, 2015、01、15

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